そして、障害者として生きるという事、
これは想像を絶する苦悶と堪忍の日々である
障害、、
単に障害というけれど、
何の障害になるのか?
分かるだろうか?
それは、生きる障害なのだ
身体に障害を持つという事は
「生きるために最低限必要な事ができなくなる」という事なのだ
分かるだろうか
よく、
できなくなった事に目を向けるな
などと
言う人(医師やカウンセラーも含め)
がいるけれど、、
その理由は
できなくなった事にいつまでも囚われていると辛くなるだけだから、
と言われる
これは健常者だから言える事だ
詭弁としか思えない。
生きるために最低限必要な動作ができなくなるという事、、
それは、
僕の場合、左半身が動かない事により、
手で持つ、掴む、放す、入れる等々、
そして、歩く、しゃがむ、
そんな当たり前の事ができなくなるのだ、
そういう動作をしなくて済むなら
目を向けずに済むだろう
簡単な話、僕は
お椀を持って味噌汁を飲む事ができない。
御茶碗を持ってご飯を食べる事ができない。
なぜなら、
左手で器を「持つ」事ができないから、、
下に落ちた物を取るのに酷く苦労する
なぜなら、
しゃがむ事ができないから。。
これらは日常生活で最低限必要な動作だ。
必要だから、やろうとする
できない
できないから、辛い、悔しい、
目を向けるな
という方が無理である
生きるために最低限必要な動作に目を向けるなという事は
そんな動作をしようとするな
と言う事か?
生きるために最低限必要な動作なのだ
それをするなという事は
「死ね」という事か?
生きるためにする動作である
しようとしない方が無理がある
目を向けるなという方が無理である
だから毎日、いや、
瞬間、瞬間に
酷く苦労し、辛い、悔しい思いをする
そんな苦悶と堪忍の日々である
それを「障害受容」ができていない
とか早く「慣れ」なさい
という方が酷である
日々苦悶と堪忍の中で必死の思いで
生きているのに
「障害受容」しなさい
残酷で冷たい事である
「障害受容」、、
こんな言葉は障害を回復させる事ができない医療者が作った「逃げ」の言葉に過ぎないと思う
僕ら障害者は「逃げ」たくても、
逃げられないのだ
障害に目を向けたくなくとも
目を向けざる得ないのだ
この苦悶と堪忍の日々が医療者に想像できているのであろうか
それでも僕は障害に目を向けなければならない
悔しい思いをするのは分かっているけれど、
辛い思いをするのは分かっているけれど、
なぜなら、
この身体で生き抜いていかなければならないから、、
苦悶と堪忍の中で生き抜いてみせる!
から
この苦悶と堪忍の中で生き抜いていくためには、希望がなくてはやっていられない
だから僕は人一倍
希望を持つ事にこだわる
投稿者プロフィール

- 代表
-
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。