あるがままを受け入れることで希望を持つことができる。


自分の身の回りに起こる世の中のあらゆる事象をあるがままに受け入れる事はとても難しい。

・苦境をあるがままに受け入れる

・病気をあるがままに受け入れる

受け入れるということは妥協することとは違うと思う。

「捉え方」だと思う。

病気や苦境はに出会うと人間だから悲しみや怒りが心の中に生まれてしまいがちだ。

でも怒りや悲しみや憎しみは事象を正しく捉えることに邪魔になるだけだ。

そういった感情は襲ってきた苦境の問題の本質を捉えることができなくしててしまう。

その結果問題の本質が見えないため解決策も見えない。

だから心が閉塞感に覆われてしまいます。

そうなってしまうと、何事に対しても否定的に捉えてしまうものだ。

そして意欲がなくなる。

意欲がなくなるから支援のアイデアもわ沸かなくなり行動もできなくなる。

そうなってしまうと苦境を脱することは絶対にできない。

苦境をアルバムに受け入れられない最大の理由は自我の存在であると思う。

自我とは、自分が過去から積み上げた「こだわり」の一種だと思う。

「こだわり」は自分を苦しめる。

往々にして苦境が襲ってきた時には「こだわり」を捨てなければならない状況に、
追い込まれることが多いと思う。

「こだわり」を捨てることは大きな喪失感を伴う。

だから苦しい。

喪失への怖れは、人の心に「焦り」と「恐怖感」を芽生えさせる

心の中に「焦り」と「恐怖感」が存在すると事象を見る目を困ら曇らせてしまう。

お互いにあらゆる事象についてあるがままに捉えることでを私心をなくすことで、

客観的に本質を取れることができれば次に必要なステップが見えてくるものだ。

次に必要なステップは見えないということは「明日が見えない」ということに等しい。

明日が見えるということは希望を持てるということに等しい。

希望を持つことさえできれば、それを信じてあとは粛々と行動するのみである。

しかしあるがままを受け入れるということはとても難しい。

とても受け入れ難いということは多々ある。

なぜなら人間には多かれ少なかれ「自我」が存在するからである。

どんな苦境でも、あるがままに受け入れるためには、「自我」を捨てるしかない。

いわゆる「悟りの境地」に到達しないとできるものではない。

しかし人間そう簡単に「悟りの境地」などに到達できるものではない。

でも僕は「自我」をすることができなくても、「希望」を持つことで、

素直に現状をあるがままに受け入れることができるものだと思う。

その「希望」に「根拠」など必要ない。

僕自身、障害の回復という希望を信じることで今の自分を冷静に見つめることが
できるようになりつつある。

障害とも真正面から向き合うことができるようになりつつある気がする。

さらにはこの2年間で失ったものに対しても冷静に真正面から受け止めることができるように、
なりつつある気がしている

そんな意味でやっぱり人間にとって「希望」ほど大切なものは他にはないと感じている。

「希望」

なんてすばらしい言葉だろう。

とても輝いている言葉だと思う。

そしてこの希望は、自分の心の中で輝かせるものだと思う

自我を捨てあるがままを受け入れることができ始めた時点から

新たな希望を持ち始めることができるのではないだろうか

たとえ世の中がどんな状況であろうと・・

たとえ自分の病気がどんな状況であろうと・・

人間は心の中に希望を持つことができる

それが人間だと信じている。

投稿者プロフィール

岡下俊介
岡下俊介代表
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。
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