独り言

執 念

昨夜自分のやろうとしていることをある人に伝えたところ、激しい指摘をされた。要するに僕のようなレベルでは到底無理であるというような指摘だった。たしかに僕はそんなに優秀な人間でもないし、身体も障害者である。専門知識もない。身体が障害者だからできない専門知識がないからできない。だからやらないということには僕はならない。絶対にやり遂げてみせる。身体が動かなければ工夫すればよい。右半分は動くのだから、右半分で全てをできるように工夫すれば良いだけではないか。知識がなければ知識を習得すれば良いだけじゃないか。これは僕の執念である。夢や希望や志というものは、知識がれば、そして身体が健康であればできるというものではないと信じている。そもそも夢や希望や志などというものはこれまでに前例のないことばかりではないか。だからこそ夢であり、希望であり、志なのではないか。つまり前例がないのである。だとしたらその志や希望を実現するための知識や経験なんて誰も持っていやしないではないか。例えばオリンピックで世界新記録を出す選手は、その身体が世界新記録を出せる身体だから目指すのだろうかその人が世界新記録を出せるかどうかなんて...
独り言

現代の政治家の「議論を深める」というくだらない小田原評定

現代の政治家の「議論を深める」というくだらない小田原評定まもなく民主党代表選で日本の新しい首相が決まる。代表選に立候補した政治家が今後の日本の復興や経済政策について「議論を深めたい」などという言葉が多いと感じる。僕にしてみれば「議論を深める」などということはまったく意味がないことだと思っている。そもそも「議論を深めて」何をするというのだ議論なんか深めたって何の意味もないと思うのだ。なぜなら何も決まらないからだ。僕は議論は何かの成否を決定するために行なうものだと思っている。最近の政治は議論ばかりしているが何も決まらない気がする。それは議論をする時のリーダーに明確な志がない証拠だと思う。いわゆる小田原評定だ。小田原評定は戦国時代に優秀な北条家の重臣たちが今後の戦について議論を行った会合だが、自らの考えばかりを主張し合い結局何も決めることができなかった会合のことだ。最近の政治家の、国会の議論を見ていると正に小田原評定だと感じている。国会の議論なんて何の意味もないと感じている。何も決まらないからだ。これはひとえに首相のリーダーシップの無さと志の無さが原因だと思う。でも僕は絶対に違う。健常者のよ...
人間について

死の覚悟

僕は生まれて初めて死の覚悟をしながら今を生きている。死の覚悟というものはこんなものなんだなぁと感じている。「怖いもののがなくなる」というのは嘘だ。それは以下に書くようなことが怖いのだ。「死」が怖いのではない。「死」自体はもう怖れていない。僕のような出血性もやもや病が発症した場合、その後10年間の再出血の確率は61.1%とのことです。以下が熊本大学医学部の出血性モヤモヤ病に関する調査論文の抜粋だ。--------------------------------------------------------------------------------再出血の予防は、出血発症のもやもや病の治療において最も重要なことの一つです.しかし、出血発症のもやもや病の自然経過や再出血の特徴はよく分かっていません。調査方法出血発症のもやもや病の自然経過を調べるために1994年から患者さんで36人(12人の男性、24人の女性)の長期経過観察の結果を検討しました。その平均観察期間は12.7年で、年齢は2.9-27.0歳でした結 果36人のうち22人(61.1%)が再出血しました.29回の再出血がありまし...
人間について

苦しい時に発揮する人間の生命力

脳卒中の後遺症の一つの中枢性の痺れ・・・半身全体を覆う得体の知れない強烈な不快感・・言葉では説明がつかない苦しさ・・・・経験したことない人には何もわからないだろう.四六時中続くこの不快感・・そのうち発狂するのではないかと思うほどだ。発症当初この何とも言えない不快感に耐えきれず、声を出して苦しんでいた。でも今、こ不快感に襲われているときでも、いや襲われたときほど心の奥底で「負けてたまるか」と叫んでいる自分がいる。苦しい、、苦しい、、苦しい、、こんなに苦しいのならもう歩きたくない。そんなことを心の表面では感じているにも関わらず、その奥底では「負けるものか」と叫び、その叫びが心の表面の嘆きを乗り越え、僕を歩かせるのだ。それは僕には成さねばならないことがあると感じているからだ。それこそ「自分だけの」志があるからだ。ここで倒れてしまうわけにはいかない・・という叫びが僕を歩かせる。。我ながら思う。。人間とは強いものだ。そんな心が僕を突き動かす。これが人間の本来持っている「生命力」というものなのだろう。それは苦しい時にほど発揮されるような気がする。そんな苦しみは是が非でも川には出さない。そんなに苦し...
最新環境技術

早急に必要なグローバル環境投資マネーを呼び込む仕掛けつくり

再生可能エネルギー促進法がまもなく通過する予定だが、現状のままでは再生可能エネルギーへのシフトは進まないと懸念している。なぜなら政府も(当然地方自治体も)赤字財政でひっ迫している上、東京電力も福島原発事故の処理が保証のため投資余力はないからだ。このままでは再生可能エネルギーへのシフトは進まず原発の新設や再稼働も困難な中で電力不足が今後も長期にわたり解消されない事態に陥るのではないかと僕は懸念しいる。従って必要なことは世界に目をむけ、グローバル「環境投資マネーを呼び込む仕掛けつくり」を一刻も早く進めることではないかと考えている。僕が現在収集できている情報では、今回の再生可能エネルギー促進法案の電力の全量買取制度が成立すれば充分に回収可能でしかも収益が出るビジネスモデルを作ることができる再生可能エネルギー技術が存在する。僕自身はこんな身体なので何もできないけれど、海外から投資を呼び込むための再生可能エネルギーファンドのようなものを創設できないかと考え、その提唱ならできるのではないかと思っている。そのために今週末にはファンドマネジャーと打ち合わせをすることになった。金融関係にはズブの素人だが...
人間の生き方

忍ぶという生き方

「忍ぶ」という心の強さは攻撃することよりも強く美しいと思う。「忍ぶ」ということは辛く苦しい・病に耐え忍ぶこと・苦難に耐え忍ぶこと・人からの攻撃や侮辱に耐え忍ぶこと「忍ぶ」ということができることは強さの証しではないだろうか忍ぶためには自我を限りなく捨て去らなければならない。そして「忍ぶ」という姿は美しいと思う。だから「忍ぶ」強さは攻撃することよりも強くそして美しい。あのマハトマガンジーの有名な言葉「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは強さの証しだ」と同じ強さではないだろうか。あのマハトマガンジーの西欧諸国の白人からの無慈悲な暴力や攻撃に対して無無抵抗・無暴力を貫き、耐え忍んだ。その姿は強く美しいと感じる。この「忍ぶ」という生き方は何も人間の敵に対してだけではないのではないか。人間は病、災難、そして死という苦しみに襲われる。善行をしていたかどうかに関わらず、誰しも、病、老、死から逃れることはできない。人間は、ただ耐え忍ぶしかない。だからこそ、それを受け止め、耐え忍ぶ生き方は強く美しいと感じるのではないだろうか。今回の震災の被災者の方々を見たとき、苦難に耐え忍ぶ姿に現代日本人...
人間の生き方

無欲無欲こそ最も強い心

無私無欲こそ強い心であり、何者にも負けない心であると思う。怒り、悲しみ、憎しみ、焦り、、と言ったようなネガティブな心は自我があるからこそ、湧き出てくる感情だ。それはある意味、自分を守りたいという本能から出てくる感情ではないだろうか。自我とか自分が存在しなければ、まもらなければならない「自分」も存在しない。だから、悲しむこともなく、怒りに満ち溢れることもなく、焦りなどの感情も湧かないだろう。僕は脳出血によって、あまりにも多くのものを失ってしまった。初めの頃は喪失感に苛まれ、身体が動けず、ひとり自宅ですごさなければならなかったことに強烈な孤独感に襲われた。何度も自死を考えた。でも、この2年半でそんな苦しみから逃れる術をいつの間にか身につけたような気がする。それこそが無私無欲の境地だ。生身の人間だから、完全に無私無欲になることは不可能だけれども、限りなく無私無欲に近い心になる術を身につけたような気がする。なぜなら、それでも生きなければならないからだ。身体が動かず、どんなに屈辱であっても、中枢性疼痛の痛みや痺れがどんなに辛くとも生きなければならないのだ。たからこそ生きるために!いつの間にか身に...
独り言

キリマンジャロ

キリマンジャロかぁ・・さっき日本テレビの24時間テレビで全盲の障害者の女性がキリマンジャロに登頂したのを見て感慨深かった。。なぜなら僕が健常者だった頃の夢はキリマンジャロの頂からアフリカの(人類発症の地)サバンナを見ることだったからだ。脳出血で肢体障害者になってからというもの、とっくに忘れていた夢だ。死ぬまでに一度で良いから、行ってみたいと思っていた場所だった。でもこの身体ではもう行くことは不可能だろう。何だか悔しい。。いつかこの身体で行くことができるだろうか。行きたい。もしこの身体で行くことができるなら、、もう何も望むことはないだろう。
人間について

苦境にこそ希望が生まれ、逆境にこそ志が生まれる

希望の持てない世の中など存在しない。志の持てない人生など存在しない。なぜなら希望も志もどちらも人の心が持つものだから最近僕は本当にこんな風に思えるようになってきている。希望の持てない世の中とはいったいどんな世の中だろうか。いくら就職活動をしても不採用が続く就職氷河期の今の日本は希望が持てない世の中なのだろうか。戦後の焼け野原で全く何もなくなったあの時でさえ日本人は希望を捨てなかったではないか逆に将来の出世や収入が約束され、健康であり無病息災で長寿が約束されている世の中なら希望を持てるのだろうか、志の持てない人生とはどんな人生だろうか。自分が周囲の人達より能力が劣っているとき志は持てないのだろうか。逆に常に自分が優秀で周囲の人たちより能力が優れていれば、志を持つことができるのだろうか。どんなに頭が良くてもどんなに素晴らしい家柄の人間でも自分に絶望して自ら死を選ぶ人はたくさんいるではないか。世の中の状況や自分の健康状態や経済状態なんて希望や志をもつために何の関係もないのではないか。僕自身、会社も失ったし、身体の機能も失ってしまった。毎日のように身体の半分が常時、痺れと痛みで苦しい経済状態に...
独り言

叔父はさぞ無念だっただろう。

8月15日、お盆に僕の両親の実家(福井の越前付近の山の中)に脳出血を起こしてから初めて3年ぶりに墓参りに行ってきた。久々に見る田舎独特の大きな屋敷。久しぶりに中に入ってみて、目に飛び込んできた。私の叔父の似顔絵の掛け軸だ。旧日本帝国陸軍の軍服姿だ。その顔は微笑んでいる。とても優しそうな顔だ。その叔父は私の母の1番上の兄である。もちろん僕は実際に顔など見たことがない。第二世界大戦中に旧満州で戦死したからだ。徴兵されたのは19才だったという。そんな叔父が僕を見つめているような気がした。僕に何か言いたげに見えた。僕の祖母は僕が12歳の時に既に亡くなっている。その祖母がいつもその1番上の長男の自慢話をしていたことを覚えている。とても優秀で頭が良かったらしい。それだけでなく親孝行で9人兄弟の1番上の兄として一家を支えるための自覚があったという。越前海岸で怪我をした人を背中に背負って崖を登り、助けたことがあるという人だ。村でも英雄だったという。いつもベタ褒めだった。でも祖母が死ぬとき、口にしたのはその叔父の名前だった。幼かった僕にはわからなかったけど、本当は叔父の話をすることは死ぬほど辛かったに違...