人間について

終わりがないということ

脳卒中の後遺症という病気との病気の最大の違いは「終わり」があるかないかではないかと思う。脳出血で左半身麻痺なってから、後遺症をなんとか治したい一心で藁をも掴む気持ちで色々な脳神経外科に行った。どこの脳神経外科だったか覚えていないがこんなことを言われた。「後遺症は治りません。治らないから後遺症というのですよ」ものすごくショックだった事を覚えている。確かに脳出血以来もう3年経過するが左半身の後遺症の痺れは3年前と同じである。つまり3年間ずっと痺れ続けているのである。1日24時間1分1秒消えることない。これが「終わりがない」という実感である。他の病気なら、例えばインフルエンザかかって苦しくても1週間か10日で「終わり」が来る当初その「終わりがない」ということを考えたとき、とてつもなく恐怖だった。終わりがない・・この苦しみがいつまで続くのだ!という問いに誰も応えてはくれないというのは恐怖である。実際には終わりはある。それは死ぬときだ。死ねば当然痺れも痛みも意識さえも無くなってしまうのだから、、(もちろん癌や白血病などの不治の病も苦しみの終わりは死であるが・・)癌などの場合でも「余命宣告」という...
人間について

障害や痛みを受け入れなければ前に進むことができない?

僕のブログの読者になって頂いた方の中に「障害や痛みを受け入れなければ前に進むことができないでししょうね」というメッセーを頂いた方がいます。でも僕は絶対にそうではないと思っています。以前にも同じような記事を書きましたが、、、医者はよく障害者に「障害受容」という言葉を使います。つまり「障害を受け入れなさいでないと生きていけない」とでも言いたいのだろうか「受容」という言葉・・僕はこの言葉はなんと冷酷で残酷な言葉だと思っている。例えば愛する人の死の悲しみや障害を負った苦しみなどを受けれること?不可能だ・・経験した事のない人が無責任に言う冷酷且つ残酷な言葉にすぎないのではないのだろうか。たとえな肉親や子供を亡くした方は時間の経過とともにその悲しい事実を受け入れることが本当に大切なのだろうか。それで心が癒されるのだろうか時間と共悲しみが癒される?それは不可能だと僕は思うその人達の時間は亡くしたときの瞬間で止まっているのだ。日常に涙が消えたのは、決して受け入れたわけではない。心の隅にひたすらにコンクリート詰めにして隠しているだけ。それでもときどき辛い想いが心の中に浮かび上がり、ひとり涙にくれるものな...
人間について

障害を個性と思えるまで・・

先日、ある会社の社長から僕のことを「障害者」ではなく僕の障害を「個性」と思っていると言われた。そういえば「五体不満足」の著者の乙武さんも同じようなことを言っていたことを思い出した。個性か、、僕には正直まだまだ難しい。左手足が思うように動かないことは僕にとってはまだまだ僕の行動の行動の邪魔をする「障害」としか思うことができない。なぜなら僕も脳裏には思い通りに動いていた左手足の記憶が鮮明に残っているからだ。乙武さんは先天性だからそんな記憶は無いだろう。(だからと言って乙武さんのことを僕よりも辛くないと言うつもりはない。小さい頃から他人と違う自分に苦しんでいただろうと思うけれど、だだ僕にはその辛さを理解することはできない)しかも僕は思い通りに動いている右半身がすぐ横に存在するのだ。だから思い通りに動かない左半身が余計に歯がゆく感じてしまう。でも今日、少しは「個性」になりつつあるのかもしれないと感じたことがあったそれは今日電車に乗るときだった。切符を購入して自動改札機まで持って行くとき、僕の右手は杖を持つ必要がある。左手は全く動かない。だから切符を自動改札機まで持って行くための手がない。阿修羅...
人間について

こだわりと思い入れと冷静さ

人間にとって「こだわり」や「思い入れ」といったもの大切なもののように聞こえる。でも、ビジネスにおいては全く不必要であり、邪魔なものではないだろうか。「職人のこだわり」「職人の思い入れ」等々を賞賛している番組などをよく見るがあれは間違っているような気がする。ビジネスにおいて「こだわり」や「思い入れ」は冷静な判断を誤らせる危険があると感じる。老舗の会社が赤字事業部門から撤退が遅れ倒産してしまうのもその伝統の事業部門に対する「こだわり」や「思い入れ」があるから判断が遅れどんどん赤字を膨らませてしまうのではないだろうか。それだけではない「こだわり」や「思い入れ」などというものはビジネスコミュニケーションにおいても大きな弊害になることが多いのではないか。僕は障害者となってから、生きることそのものが苦しいために、何かと「こだわり」や「思い入れ」といったような熱い思いを無理にでも持ち続けようとしてしまっているような気がする。志とか希望とかいう聞こえのよい言葉で・・そういったものが自分の生き方において自分の心の中だけでに持つべきものであって外に出してはいけないのではないだろうか。そんなことに今悩んでい...
独り言

自分の過ちが怖い

最近、自分が少し信じられなくなってきている。善かれと思って取りはからったことが思わぬ反対の結果を招き、そのあげく人を傷つけてしまうことさえあるからだ。僕の思いが足りないのか、計らいが足りないのかどこか焦りのようなものがあり「策」を弄してしまっている感じがする。障害者となってからというもの特に最近そんなふうに感じる。昔に比べ人間関係のトラブルが非常に増えているような気がするから、脳の障害が肢体障害だけでなく、精神障害までを超してしまっているのではないだろうか自分の身体的能力や判断能力になんとなく自身が持てていないのか「策」に弄して相手に対する思いやりの心や心情的理解を充分にできていないような気がする。物事の判断能力まで低下してしまっているのではないだろうかとさえ感じてしまい自暴自棄になりそうだ。確かに重篤な再出血の確率61%という常に死と隣り合わせの毎日であるので、以前の自分よりある意味で「恐いものなし」で行動してしまい、慎重さに欠けている気がしないでもない。自分では最大限配慮しているつもりでも大きな穴ができ人間としてとても大切なことが抜けてしまっているのではないかと自分が信じられなくな...
人間の生き方

意欲の源泉

負けてたまるかという意欲の源泉は志と執念の強さであると思うそして自分の志と希望を信じる力である 。そして物事の達成ができないのは能力の欠如ではなく執念の欠如である 決して身体能力の欠如のせいにしてはいけないと自分に言い聞かせるのであるそうしないと障害を負っている事に負けてしまいそうだから、、
人間について

甘え」からくる「すねる「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」

「甘え」からくる「すねる「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」甘えるという言葉は日本語にしかないようである。甘えというのは日本人特有の心理状態だそうだ。----甘えの構造より----甘えると言うのは相手が自分のことを理解してくれているということを前提に行動をすることだという。そしてこの「甘え」という心理から出てくるのが「すねる「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」という心理状態だそうだ。「すねる」のは素直に甘えることができないから出て来る感情である。しかし、ある意味すねながら甘えているのである。「ひがむ」のは自分が不当な扱いを受けていると曲解することから生まれる。「ふてくされてる」や「やけくそになる」というのもすねる結果起こる現象である。それは自分の「甘え」のアテが外れたことに起因しているひねくれるのは甘えることをしないで却って相手に背を向けることであるがしかしひそかに相手に含むところがあるからである。----甘えの構造より----振り返って自分に障害者であるという「甘え」が存在していないか気になるのである。障害者であることを理由に「甘える」ことだけは絶対にしたくないと考えている「甘える」とい...
独り言

終わりのない闘い

脳卒中は僕に後遺症という形で僕に終わりのない闘いを与えた。この身体の不自由さは現代医学ではいつまで続くか分からない。誰にも、どんな医者にもわからない。たいていの病には終わりがある。病の終わりは痛みの終わりであり、苦痛の終わりである。しかし僕には終わりがない。苦痛の終わりは死であると思っているこれは果てしない闘いである。高い高い、いつ乗り越えられるかどうかわからないような壁が僕の前に立ちはだかっている。どんなに高い壁であろうとその壁が高ければ高いほど、僕の決意が強くなるだけだ。僕も生身の人間だから、突然高い壁が立ちはだかれば、弱気になってしまう。しかしその弱気の後には必ずと言って良いほど決意がみなぎってくるのだ。本当に不思議なものである。もうダメか・・と感じてギブアップしそうになってしまう瞬間があるのだけれど、そのどん底の精神状態の次に来るのは決意なのである。この決意が心の中に芽生えることができればしめたものである。そうなると、もう何が起こっても平常心が崩れることは無い。人間の心で意外と強いものだ。僕の終わりなき闘い。次から次へと押し寄せて来る高い壁よ。どこからでもかかって来い。お前が高...
人間について

辛い辛いと嘆いていても・・・・

ここ数日の僕の記事・・・辛い辛いと嘆いているような記事ばかり・・自分でも情けなくなってくる。。。まだまだ心が強い証拠だ。もう一度自分に言い聞かせよう。希望とは身体の状態や世の中の状況とは全く関係ないものだ!身体の状態や世の中の状況とは関係なく希望は持つことができるのだ!希望を持つのは心なのだ。そしてその希望を持つ心こそが苦境を乗り切る知恵の源泉であり力になるのだ!辛い辛いと嘆いてばかりいると沸く知恵も沸いてこない。ますます苦しくなるだけだ。身体の痛みもますます痛く感じるだけだ!情けないぞ!お前さあ明日から、いや明朝から苦境を乗り切るためにやるべきことをこつこつと粛々とやろうではないか結果を考えていても仕方がない。そんなものは運命だ。自分の最善を尽くして結果が出なければ仕方がないじゃないか。人生の最期は結果よりも最善を尽くした人生だったと思えることの方が大切だと分かっているはずじゃないかさあ、余計なことは考えず頑張ろうではないか。おまえ、本当にわかってるのか
人間について

万策はまだ尽きていない

いつになく弱気になっている。なぜだろう。なぜか万策尽きたような気持ちになっている。もう一度3年前振り返ってみろよ。あのときは本当に万策尽きたと思っていた。社長業に追われ、リーマンショックのあおりを食って売上が5分の1に落ち来月の給与が払えない。銀行には個人保証で***千万の借入れがあった。そんな状態で脳出血でぶっ倒れた。。左半身は全く何も感じずぴピクリとも動かず・・ベッドで寝返りさえできない。どうする・・どうもできない。どうする・・会社も倒産、自分も自己破産でもこんな身体ではどうにもできない。日雇い労働さえできない身体。妻子もいる。このままでは一家路頭に迷う。万策尽きた人生終わった・・・・かに見えた。でも終わっていなかった。万策が尽きたのではなく自分の心に諦め(こんな体で仕事はできない)(こんな身体で銀行の借金なんて返せるわけがない)そんな心の諦めがあったにもかかわらず、右手一本でここまできたじゃないか。右手一本でNPO法人設立まで、設立できたじゃないか。何を今さら、弱気になっている。自分で万策尽きたと思い込んでいるだけじゃないか。考えろ!まだまだ策はあるはずだ。そしてまだ来もしない不...