人間の生き方

僕の志とは・・本物か!?

「志」・・この文字をよく見てみると「士(サムライ)」の「心」と書くではないか。そうだ侍の心なのだ!武士は食わねど高楊枝の心だ!武士はどんなに生活に窮(きゅう)しても不義を行わないという意味だ。僕は少なくとも自分なりに志を持ったつもりだった。振り返って自分はそんな侍魂を持っていただろうか。。どんなに苦しくても、その苦しさを顔に出さないでいただろうか笑い飛ばしてしまうくらいでないといけないのだろう。今やっと、志に向けて第一ステップが進み始めている。これが成功すればうまくいけば世界の目が日本のソーラー技術に向くだろう。そうすれば世界のプレイヤー(投資家)がこのファンドに注目するはずだと信じている。 それが日本経済活性化の起爆剤になるのではないかと考えているしかし前途は多難である。ファンド組成のステップが進み始めたとはいえ、このプロジェクトの肝でもある全量買い取り制度の実質スタートは来年の7月だ。しかも買い取り価格の決定は来年3月だという。買い取り価格が決まるまでファンドの利回りがシミュレーションできない。おそらくこのタイミングで電力会社やその系列からの抵抗勢力がに台頭するであろうことは予測で...
独り言

耐え忍ぶ・・忍耐・努力、そして執念

今日一つの大きな仕事が大きなステップアップした。以前から進めようとしていたメガソーラーファンド組成に関する第1回目の打ち合わせが完了した。やっとここまで来れた・・そんな感じだ。この身体でよくここまで来れたのものだ。金融業界のことなんて全くのど素人の僕がメガソーラーメーカーとファンド組成会社のつなぎ役をすることができた。数十億単位の大きなファンド組成だ。ここまで来るためにはいろいろな障害があった。はじめ、ある人にこのファンドの話を進めたいと相談したとき、僕のような素人では無理だと言われた。どうすればよいか教えてほしい。そうしたら「教えてほしい」なんていうのは甘い考えだ。自分で勉強しろともいわれた。でも僕には執念があった。この身体で、障害者でも役に立つことを証明したいという執念。その執念が「甘い」と言われようがなんと言われようが、わからないことは恥を忍んで聞くしかないと思い、ありとあらゆる方面にアプローチして問い合わせ、聞きまくった。これは父の教えでもある。僕の父は中学生の卒業してすぐ福井の田舎から風呂敷包み一つで大阪に丁稚奉公に来て必死で働いてき人間だ。僕は今でも世界一尊敬する人は誰だと...
人間について

僕はマイナスがあったからこそ、今ここにいます。

僕はもやもや病という難病と半身不随という障害というマイナスによって(零細企業でしたが)会社の社長という舞台から去ることになりました。「なぜ、こんなことすらできなくなってしまったんだ!」「こんなに必死で頑張っているのに、この障害はなぜ僕をこれほどまでに苦しめるんだ!」そんな数多くの感情と対峙して、過去の自分と比較して、マイナスを背負わない人々との比較して苦悩してきました。でも今はマイナスがあるからダメ・・なんてことは無いと思えるようになりつつある。「~だからダメ」なんていうことは無いと思うようになりつつある。挫折の先にこそ価値あるものが存在するのではないかと感じるのです。もし、僕が脳出血という挫折を経験してなければ、今の僕は存在していなかったでしょう。そして、今のような心の持ち方をすることができなかったでしょう。挫折の前より挫折のあとの方が多くのことを学ぶことができ、(健常な時には出会うことができなかったような)多くの人たちと出会うことができ「つながり」を持つことができたような気がする。もし脳出血で倒れていなければ、今も僕はSEという仕事に追われ、会社の資金繰りに追われ続け、今でもプログ...
独り言

怖いものは怖い!(>_<)

昨日、息子を連れて鈴鹿サーキットに遊びに行った。。さすがにこの足で杖を付きながらあのだだっ広い鈴鹿サーキットを歩き回らされたので後半は左半身が痺れがキツくなって死にそうだった。。それよりも何よりも・・観覧車・・・僕は昔から極度の高所恐怖症・・息子にせがまれて・・渋ぶ・・渋ぶ乗った。。。これがまた本当に怖かった。。一度は脳出血で死を覚悟したとはいえ、怖いもんは怖い!斜め60度くらいからは怖いから外の景色は一切観ず!右手は脂汗でいっぱいで取っ手を握りしめ外を意識しないようにあえて携帯メールを書くことに集中!そうしたら息子が妻に「パパが観覧車に乗ってめちゃ怖がってる」などとメールを送ってた・・父の面目丸つぶれじゃ、、、^^;それでも下手で持ったデジカメを下を見ずに手だけ下に向けて撮った写真がこれだ!脂汗の手で撮影した「渾身の?(苦笑)」一枚
人間の生き方

粛々と物事を行うということ。

結果がすぐにでなくても、粛々と物事を行い続けるということは、実に苦しいものである。僕は半身麻痺なってからほぼ3年になるが、未だに週1回のリハビリを続けている。これだけリハビリを続けても大して効果が出ているとは感じない、、、、でも僕は半身麻痺になったとき誓った。45歳で45年かかって出来上がった脳機能が破壊され損傷したのだから、あともう45年リハビリを頑張ろうと・・そうすればそのころには90歳だけど元に近い身体機能を取り戻すことができるはずだということを信じようと・・そんな思いでこの3年間リハビリを続けてきたけれど、さすがに3年間でほとんどの身体機能の向上を感じない状態では「もうダメかな」と心が折れそうになってしまう。それでも気を取り直してリハビリを続けてきた。そんな経験から僕は昔よりずっと忍耐強くなったような気がする。結果がすぐにでなくても粛々とやるべきことをやり続ける。そんなことが昔よりできるようになった気がする。今のNPO法人の活動においても同じだ。何かの行動を起こした時、結果が出ない。1週間たっても2週間たっても何の反応もない。そんな状況の時でも粛々とやるべきことをやり続けること...
人間について

「できないことはある」でも「できないことはない」

「できないことはある」でも「できないことはない」これはできないことがある現実を受け止め(受け入れるのではない)つつも、僕なりの「諦めない」という意味です。僕は左手は全廃なので左手で(普通に)お茶碗を持ってお茶漬けを食べることができません。そういうことさえできないという現実は「事実」ですし、受け止めています。でもお茶漬け自体を食べることができないわけではない。スプーンを使えば食べることはできる。そんな食べ方に自分が情けないと思うか思わないかは僕の心の問題に過ぎない。更に左手を右手で開いてあげてその上に茶碗を置き紐で縛りお茶漬けを入れれば(腕は多少動くので、)左手でお茶碗を持ってお茶漬けを食べることができるのだ。これが僕の「諦めない」ということだ。「できない」事実は受け止めなければ仕方がない。でもそれをそのまま「受け入れる」のではなく、「諦めず」さらに「工夫」さえすればできないことはないのだ。そこに希望が見つかればそれで良い。
人間について

気持ちのリセット

人間、ほんの小さなことでもよくないことが重なると気持ちのリセットが効かず気持ちが折れてしまうものだ。ほんの少しの怒り、ほんの少しの悲しみ、ほんの少しの失敗等々自分で抑え切れるはずのことも連続して起きてしまうと自分を見失ってしまうと思うものだと思う。僕の場合、痛み、痺れ、不自由さが毎日続いているのでときどき気持ちのリセットが効かず、気持ちが折れて激しい怒りと激しい悲しみに襲われることがあるそんなとき自分をリセットするための言葉を持っておくことが大切だと思う。僕の場合、「無私無欲」と唱えるようにしている。怒りや悲しみや不安などというものは自我が存在するから感じるネガティブな気持ちだと思う。仏や仙人でもない限り、生身の人間が自我を完全に無くすことなんて不可能だけど。「無私無欲」と唱えているだけで不思議と心が落ち着きを取り戻す。怒りも悲しみも悔しさも和らいでくる。本当に仙人のように自我を完全に無くすことができればどんなに楽だろう。そして客観的に冷静な判断ができ物事をし粛々と進めることができるだろうに。。
人間について

一生に2種類の人生を味うことができているのかも

僕は脳出血で半身不随となってからというもの運動やスポーツというものが全くできない身体になってしまった。やむなくどちらかというといつも机に座って本を読んだりパソコンで仕事をしたりという生活をしている。最近はスポーツなど一切しないそんな生活にも慣れてきたような気がする。確かに左手は全く動かず、歩くにも苦労するけれど、以前のようにせっかちな自分は存在しなくなった。考えてみれば、人間には大きく分けて運動が好きな人間と嫌いな人間という2種類の人間がいるような気がする。いわゆるスポーツが好きでアウトドア活動が好きなタイプとスポーツが嫌いで読書や音楽鑑賞などが好きでパソコンにばかり向かっているいわゆるオタクタイプだ。脳卒中で倒れるまでは僕は前者だった。どちらかというと体力には自信があり走ること泳ぐことも好きなスポーツマンタイプだった。アウトドア活動が好きで若いころからスキューバダイビングやウィンドサーフィンなどのマリンスポーツに興じたものだ。僕の知り合いに僕は全く逆でアウトドア活動が極端に嫌いな友人がいた。彼は読書が好きでジャズなどの音楽鑑賞が大好きだった。南の島の仕事なんかに行っても、いっさい海に...
人間について

心を地獄から救うのは「笑う」という単純な行為。

先日、8歳上の従姉と実家で久しぶりに会った無昔から人を笑わせるのが得意な底抜けに明るい女性だった。いつも冗談ばかり言い周囲を笑わせるのが得意な女性だった。僕が半身麻痺になってから初めて会った。さすがの彼女も「大丈夫?」とか「頑張って」とか慰や激励の言葉があるかと思ったら顔を合わせた瞬間に冗談を言い始めた。。その冗談で自分が大笑いし始めた。。たわいもない冗談話ばかりである。僕の脳出血については一切触れない。。僕は少しポカンとしていたがそのうち、ツラれて笑い始めた。久しぶりに笑った。いつのまにか大笑いしていた。その笑いで辛さが吹っ飛んでいった気がした。笑いが心の地獄をふき吹き飛ばしてくれたんだ。笑おう。これからは・・笑えばどんな心の地獄も吹き飛ばしてくれるような気がする。笑う理由なんてどうでもよい。とにかく笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!(^○^)この文字を見ているだけでも心がラクになってくる気がする人は思い切り食べて、思い切り寝て、思い切り笑うことで生きていけるような気がする。たったそれだけでどんな心の地獄からも救われるような気がするから・・
人間の生き方

今の自分が地獄だと思うのは「知らない」から

僕は昔から何らかの病気で盲目になるのことがとても怖かった。でも、あるときテレビで盲目の人にインタビューしているのを聞いた。彼は目が見えないことをしっかりと受け止めていて、その中で学ぶ楽しさや出会う楽しさを感じていました。更に驚くことに彼は白い杖を突きながら、「不便なことはあんまない」とまで言っていました。入会の素晴らしさや学ぶ喜びに目が見えないことは関係ないということを僕に教えてくれたのです。目が見える僕たちには目が見えない人生に楽しさを見いだすのは難しい事です。でも彼は人生に楽しさを見いだしていたのです。僕にはまだまだ知らないことが沢山あります。目が見えない人の心が「元気」であることを「知る」だけで僕には新たな希望が湧いてきました。僕の価値観はこれまでの僕の知識と経験から作り出された小さな小さな価値観であるということに気がついたのです。不安なのは「知らない」からなのだと思います。現状の自分に未来があるのか? 何をどう努力すればよいのか分からない。そんな心の状態が不安を増強させてしまいますつまり未来への努力の方法を「知らなかった」から不安だったのです。僕と同じような環境で人生に生きがい...