人間について

人生の勝負どころは長い

よく「今が勝負どころだ!」という言葉を聞くけれど、「勝負どころ」とは何かの目標や目的に向かって歩みのなかでのどこかの「瞬間」ではなく、その歩みのほとんどの期間が「勝負どころ」ではないかと思う。なぜなら、僕は脳出血で倒れてからもう4年半になるけど、今この瞬間も回復のための勝負どころだと感じている。人生を立て直すための新しい仕事が今やっと本格的に動き出そうとしている障害を負ってからの自分の生きがいでもあり、いつのまにか、その後の僕の人生のらライフワークにしてしまった再生可能エネルギーの普及に関する活動、、こちらもそう簡単に結果が出るものでもないいろんな壁や挫折もあるこれもも常時勝負どころだと思う。人生の勝負どころって「ある瞬間」のことでなく僕は10年くらいが人生の「勝負どころ」ではないかって感じているどんなことでも少なくとも10年耐え、10年頑張り続けなければ芽なんて出ないし、成果も出ないのではないかと感じるそんな意味で僕は障害者になってから4年半・・今も毎日勝負どころであると感じる毎日崖っぷちを歩いているだから、毎日ちょっとでも気を抜くと崖から落ちて二度と這い上がれなくなってしまいそうで...
人間について

まだ夢をみているのかな・・

僕はスキューバーダイビングが得意だったはず・・・・泳ぎも得意だったはず・・でも今の僕にとってそれは手の届かない娯楽でしかない海の中を潜っていて何よりも好きだったのは・・水中から水面を見上げて太陽をみること・・水中を漂いながら。。潮の流れに身を任せ・・キラキラと水面で輝く太陽がとても美しい・・この世のものとは思えないくらい美しいと思った・・そして、そんな水面に輝く太陽を見ることができる自分が幸せだと思ったいつまでもこうして太陽を見ながら漂っていたいそんな自分に生きている実感があった・・でもそれはもう僕にはできない確かに手助けをしてもらえば潜ることができるかもしれないでも僕は水中を漂いながら「海の中を自由に漂いたい」けど、手助けしてもらいながらではそれは無理だつまりもう二度とあの幸福感には浸れないのだでも不思議に思う・・いつから僕はそうなったのだろう・・っていつのまに・・?僕は海の中にいけなくなったのだろう・・いつもまに・・?って思うときがあるそんなとき今でも・・今が夢の中で、まだ悪い夢を見ているような気がするのだ・・
人間について

桜・桜・桜

今日は天気も快晴で、近所の桜並木が満開に近い状態(たぶん8分咲き)だったのでいそいそと一眼レフを首にぶら下げて撮影に行ったさすがに予備レンズ3本を入れたカメラバッグを背負って歩くのはキツかった・・でも結構上手く具合に撮れたので少々満足・・この桜もあと10日もすれば一気に散るんだよなと思うとほんと儚いなって感じるでもやっぱり散るなら桜みたいに一気に散る方が僕は好ましい。人間(僕)の命もね・・いつまでも「生」に執着して。未練がましく(ただ生きてるだけの状態)では生きていたくないなそれにしても桜並木は爽快だった
人間について

プレシンキング

プレシンキング(Prethinking)・・この言葉はいつだったか僕が勤めていた会社で教わった言葉(自分で起業するまでいろんな会社を転々としていたのでどこ会社だったか忘れたけど・・)意味は、その英語の通り「事前考察」つまり仕事上で、どんな行動をするにも、行動する前にあらかじめ起こり得る事態を想定して(できるだけ想定外も含めて)準備しろということだ悲観的に想定(最悪の事態を想定して)して準備して、行動は楽観的に・・とも言われた記憶があるそして今僕は、行動する前に必ずこれから行動すること(場所や状況やかかる時間)をあらかじめシミュレーションすることを余儀なくされている。なぜなら、この身体では咄嗟のときにすぐに対応不能だからだ。。・これから行動する場所に階段はあるか、・この足でどの程度の時間がかかるか・その場所に手摺りはあるかないか・交通機関を利用する場合、時刻表をキチンと頭に入れておくそこまでしないと何かミスやトラブル(遅れやこの身体で移動できない場所「例えば手摺のない階段など」)が起こった場合今までの健常者の頃のように対処できないし、やり直し(引き返してもう一度来る等)が会った場合とてつ...
人間について

許すことは自身を救うこと

「弱い者ほど許すことができない。許すということは強さの証だ」この言葉はあの非暴力・不服従主義で有名なマハトマガンジーの言葉だけど、最近僕は「許す」ということは自身を救うことではないかと思うようになっている。なぜなら、例えば僕を襲った病気に対する憎しみ怨みや悲しみや怒りと言ったような気持ちを考えるとこれが病気でがなく人に対する憎しみ怨みや悲しみや怒りだった場合、「復讐したい」とか「報復してやる」という気持がでてきて、復讐や報復ができればそういった気持ちが晴れるかもしれない、でも、もし、復讐や報復ができたとしても、そんなことをしてしまえば、後悔や自責の念だどが絶えず心の中に付きまとうような気もする。もちろん、復讐や報復ができなければ、「復讐したい」とか「報復してやる」という気持が永遠に付きまとう。それはどちらも、決して良い状態ではなく、どちらも(復讐できてもできなくても)自分自身を苦悩に陥れるような気がする。だから、復讐や報復で自分が救われるわけではないことを意味する。そこで唯一、自分の心が救われるのが「許す」という行為ではないかと思うでもこの「許す」という行為も「我慢」や「忍耐」の上で成...
人間について

中村久子さん・・

昨日書いた中村久子さんの記事に対してYouTubeに中村久子さんの紹介動画があったというコメントを頂いたので探してみたら見つかったのでここに紹介します。「知ってるつもり」という番組で紹介されたものだった。これを観ると確かに感涙ものだ・・これほどの苦難の生涯を送りながら、それでも久子さんは自分が慢心していると悩んだというくだりは身が引き締まる思いがした・・そして。あの釈迦が「目覚めた人(ブッダ)」と言われているけれど、この中村久子さんこそが本当に「目覚めた人」であり、「悟りの境地に達した人」ではないかと感じた。。中村久子-1中村久子-2中村久子-3中村久子-4
独り言

ある!ある!ある!

ある。ある。ある!僕には自由に動かす事のできる右手がある!多少は以前より器用になった右手がある!いざというとき、身体を支える右脚かやある!目も見える食事ができる口も喉もある!普通に思考ができる脳もある!僕には、ある!ある!ある!今まで無くなった、無くなった、無くなったと喪失したものばかり考えて苦しんでいたけれど、僕にはまだまだある!ある!ある!たくさんの身体機能があるじゃないかこれだけの身体機能があれば何だってできるじゃないか!僕にはまだ、ある!ある!ある!
人間について

まだまだ煩悩だらけ・・

無手無足で生き抜いた中村久子さん(1897年(明治30年)11月25日生まれ)という人がいることを僕は今日知った。彼女は3歳のとき足の霜焼けが元で突発性脱疽という病気になり、なんと両手両足を切断したそうだ。その彼女はすぐに父親も亡くし、食べていくために見世物小屋で見世物芸人「だるま娘」として見世物になった。でも彼女は持ち前のたくましさで、料理から裁縫まで何でもできたそうだ。更に結婚もして子供も産み立派に育てたというその彼女は仏法を学んだ人たっだ。彼女はヘレンケラーとも対面しており、ヘレンケラーが来日して久子さんに会ったとき久子さんの身体に触れて、ハッと気が付き「私より苦労している人、そして偉大な人がいる」と言って滂沱の涙を流して彼女を抱きしめたという。その彼女にこんな逸話があることを僕は知った。この久子さんの娘さん(富子さん)は寮生活をしながら遠方の高校に通っていたそうです。(富子さんは手も足もないのに何でもできる母が自慢だったそうだ)あるとき、母・久子さんが一人で高校まで様子を見に来たので、富子さんはビックリしたそうです。当時は汽車で20時間もかかるところだったからだ。久子さんは一人...
人間の生き方

なるがままに・・

僕はなぜこんな障害者になってしまったのだろう・・?なぜ脳出血のせいで自分の会社まで無くさなければならなかったのだ?なぜ破産までしなければならなかったのだろう?そしてなぜこんなに不自由で辛い、苦しい、情けない身体になってしまったのだろう一時は「僕が何か悪いことでもしたのか?」なぜ?なぜ?そんな疑問と自分の人生への怨みの気持ちでいっぱいになっていた時期がある正直、こんなに苦しく辛いならもう死にたいと何度思ったことだろうでも今、これは「なるべくして」なったんだと少しずつ思えるようになってきているそれは善行をしていなかったから、とか悪行をしていたからとかしうものではなく全ては因果則にしたがって起こったことなんだどういうことかというと僕が脳出血を起こした直接の原因は高血圧であるそして高血圧の引き金になったのはクライアントからのクレームや例のリーマンショックが原因で海外向け販売が激減したことそれは何も誰が悪いのでもなく、なるべくして起こったこと例えばリーマンショックでいえば世の中の大きな流れは誰にも変えることはできないさかのぼるとソ連崩壊後、資本主義経済の急速な進行それと同時に制御のないマネーゲー...
独り言

やっぱりいつもギリギリ

いつもギリギリ頑張っているよな痛み、痺れ、不自由、悔しさ、悲しさそんなものが常時僕を苦しめる・・それをいつもギリギリの線で耐えているいつまで続けれられるか・・正直言って、自信がないそれよりも最近は・・自分の命がぼちぼちと終わりに近付いている感覚があるそれは上手く言えないけれど・・何となく直感である・・野生動物は自分の死期を悟るというけれど人間だって同じだと思う。障害を負ってからこれまでも同じようにギリギリを生きてきたけれど最近はやることなすことがちぐはぐな感じでうまくいかないうまくいかない事なんて健常者の頃もあったけど最近はうまくいかない度に徐々に「堕ちていく」感じがするのだ。そろそろ「老い」との闘いが始まっているのかもしれない。障害と闘いながら、老いとも闘わなければならない・・そんなことを思うとちょっと自信がない最近の自分である人間だれしも、老い・病い・死から逃れることはできない自信がなくって当然かな・・そして不安にもなる・・そんないつも精神的ギリギリを生きているなって我ながら頑張っているなって思うのだ