人間について

できないというのは横着?

何らかの問題でできないと言ってやめてしまったら、人間は何もできませんやらなければならないことは、どんなことでもしなければならないのが人間です。絶対にやらなければならない都言う気持ちになったら、できないはずはありません。きっとできるものです。 できないというのは横着に他なりませんこれは幼児期に壊疽により四肢切断し、日本のヘレンケラーと言われたあの中村久子氏の母がまだ11歳の久子さんが繕いものができないと言った久子さんに放った言葉である。スゴイ言葉である人間、本当に必死になればできないなど存在しない確かにそうかもしれない現代でこそ、人は飛行機で空を飛び、ロケットで宇宙に行き、IPS細胞で人間の臓器まで作ってしまうでもこれらは、ほんの100年ほど前までは「絶対にできない」と思われいたことばかりではなかろうか人間、本気になれば不可能はないこれは決して、人間の驕りということではなく、いつも、本当に本気になっているのかということをあらためて自分に問いただしてみる意味で僕のような身体でも、人間、本気になれば不可能はないと思いたいと感じるのである。だから、あきらめない自分があきらめたら、そこで本当に終...
人間について

未だに自分の身体能力の予測できない・・一番歯がゆいのは自分・・苦

昨日、上京したとき大手商社M社に訪問する際、M社を紹介してくれた人と大手町のパレスホテルで落ち合うことにしていた飛行機の羽田到着は14時15分でパレスホテル行きリムジンバスがあるというので、15時半なら充分だろうと思い、約束したでも・・なんと飛行機から降りて・・少し用を足してリムジンバス乗り場に着いたらなんと15時過ぎ・・・到着ロビーからなんと45分近くのかかったのだこれではまるで亀かカタツムリだ・・あおれでも精一杯で汗だくであった・・もうこれは15時30分には間に合わない・・仕方がないので電話して送ら遅らせてもらった・・こんなことは些細なことだことだけれどもこんなとき5年も経過した未だ僕の中からは健常者の頃の身体イメージが離れていない事に気付くと同時にとても情けなくなる・・他にも横断歩道用の信号が赤になる前に横断歩道が渡り切れるかどうかわからないときが多々ある・・そして渡ってみると・・右折、左折車を思いっきり待たせている自分に気付く・・そんなときその右折、左折車の運転手はきっとイライラして歯がゆいだろうなと思いながらそれがわかりながらゆっくりとしか横断歩道を渡れない自分が歯がゆいのだ...
独り言

旧刑場・・・

昨日から再生可能エネルギーの件で大手商社M社との打ち合わせのために上京中まさかこの僕が再生可能エネルギーの事であのM社と打ち合わせをする事になるとは夢にも思わなかった。もちろん主体は僕ではなく、僕は単なるつなぎ役だが、、(大手商社にM社は3社あるからM社で良いだろう)この打ち合わせとは全く別の記事内容になるけど、昨夜から宿泊した小伝馬町界隈のビジネスホテルの近くに、今朝、カフェはないかと、杖をつきながら、ヨタヨタと歩いていたらこんなものを見つけてしまったから思わず写真撮影してしまったたぶん江戸時代の刑場だろう霊魂や幽霊を全く信じない僕でもさすがに気味が悪い、、それは、あの時代だったら言われなき罪で死刑になった人も少なからずいたであろうその人達の怨念とかいうものではなく、現代でもなくならない冤罪に苦しむ人がいる事が僕の心に突き刺すような痛みを感じさせるからだろうiPhoneからの投稿
人間について

24時間テレビ・・

僕は障害者になってからこの日本テレビのやる(今放送している)「24時間テレビ」というものを観なくなったなぜなら、どれも「努力」、「克服」、「感動」、「涙」「それでも生きる」的な脚色が加えられるため、刑事が刑事ドラマを見て一笑に付すように最近の僕は観ていてもまったく感動しないからだと言うより嘘っぽく、現実とはかけ離れた脚色がされていると感じてしまうからだ癌、障害を扱った場面一つとてみてもたかが10分か15分に編集され当事者でない人が観るとこの10分か15分に編集された場面がすべてのように錯覚させるような脚本だと僕は思うだから僕はウソっぽく感じるから見ないこういう人々が本当に苦しいのは日々24時間×365日なのだそして年に一度の放送の「非日常」でもある「24時間テレビ」のような一時的ものではなくまさに「日常]にこそ、苦しみがあるのだしかし、この様な番組が高視聴率を稼ぎ、障害や難病を扱ったNHK教育テレビのようなドキュメンタリー番組などは福祉関係者や当事者で無ければ見ないドラマ風の番組に「感動を求める」けど「現実は見ない」障害者や難病の人は努力し、明るく感動的に生きていないといけないというよ...
人間について

輪廻転生

生き物は死ぬとその49日後に死んだ命と魂が別の形ある肉体に引越しをするそしてまた生き死んでいくこんなことが永遠に繰り返されるこれを輪廻転生と呼んだ釈迦はこんな事は一切言っていない釈迦は永遠なるものは存在しないすべてのものは移り変わるいわゆる諸行無常だ輪廻転生などと言うものは紀元前後に起こった大乗仏教運動で生まれたものだという死とは肉体が滅びてなくなることそしてその中に収まっていた心さえも無くなることそのことを悲しみ怖れるあまり、人々は肉体は滅びても心(魂や霊)だけは永遠に存在すると考える事によって怖れから逃れるための甘美な夢想に過ぎない輪廻転生などと言う考え方はそんな人間の死に対する恐怖から生まれてきた想像物に過ぎないというだとしたら今生きているこの瞬間、肉体的5感と精神的5感(悲しみや喜びや憎しみや怒り等々)があるこの瞬間にこそ肉体的苦しみや快楽があり、精神的苦痛や心の安寧もあるということは生きているこの瞬間にこど天国もあり、地獄があるではないか僕には脳の損傷により、もうこの5感の一部が無いけれど幸い、僕の心を司る脳の機能までは損傷していないだから今生きているこの瞬間を生きていくには...
人間について

ときが心を癒す?

ときが心を癒すという言葉があるでも時間の経過が心が癒す事が出来るのは有ある意味「忘れる」からだと僕は思う永遠に忘れる事が出来なければ、その心は永遠に癒される事なんてない実際に僕は脳出血からもう5年の歳月が経過しているが確かに脳出血時の混乱や悲しみ等々は記憶が薄れてきているでもそのためも残った後遺症は、現在も、今この瞬間も僕の目の前に立ちはだかっている!周囲の人たちにとっては、両親や家族でさえも「過去の事」になりつつあるような気がする。でも僕にはこの後遺症がある限り、この苦しみは永遠に現在進行形なのだ。昨夜だったか、一昨日の晩だったかNHKで日本人に先の大戦の終戦日を8月15日と答えることができなかった人がなんと33%もいたという!驚愕である・・これもときが人の心を癒すということつまり「忘れる」とうことなのだろうかこの「忘れる」ということがなければ人間は苦しみのあまり生きていけないのではないだろうか戊辰戦争の終結日は5月18日であるそんな日を知っている人はほとんどいないであろうたぶん明治の初期には薩長に追われ、負け戦さをした藩の人々は敗戦の屈辱の日として永遠に忘れられない日だと思ったであ...
人間について

我ながら集中力あるなぁ・・(/_;)

今、、、ある仕事の資料作りに集中してPCに向かっていた、約3時間近く・・自分で言うのも何だけど、健常者の頃から、僕はPCに向かっていても3時間や4時間ではほとんど疲れることはない生まれてこのかた、肩こりというものを知らないだから肩こりもPCで何時間さg徴していようが肩こりは・・ないそれは今も同じ・・眼も疲れない・・とてつもなく集中できるのだ・・・だからこのブログを書くのも好きだお蔭様で1700記事を超えている。このペース今年中に2000記事は超えるだろうで・・・何が言いたいか・・って?今、その資料作りが一段落してふと、机の日左横に視線を移すと何か白いものが視界に入った・・お化け・・・?んなわけないだろ・・僕ほど幽霊(霊や魂の存在)を信じない奴は世の中にいないだろう(苦笑)だからお化けも出ない!(妙な論法だな・・まいっか)その白いものは・・お化けなどではなく・・なんと!溶けて机の上に広がったアイスクリームだった・・・(-"-)そういえば・・仕事を始める前に気分転換にアイスクリーム食べたっけ・・全然、、、記憶にない・・(^_^;)でも・・・机の上にはアイスクリームが溶けて広がっている・・2...
人間の生き方

人より100倍がんばりゃ良いだけ

ふと思ったこと、、半身不随になって不自由になったと嘆いているけれどもし、タイピングスピードが片手しか使えないために10分の1になったなら10倍時間をかければ良いだけもし、歩くスピードが5分の1になったのなら5倍時間をかければ良いだけ、着替えのスピードが4分の1になったのなら4倍時間をかければ良いだけそして、それで健常者の頃のように納期に時間に間に合わさなければならぬのなら10倍早くスタートすればよいだけ5倍早くスタートすればよいだけそしてその分早起きすればよいだけただそれだけのこと決してなんにもできなくなったわけではないのだ人(健常者)より100分の1パフォーマンスが落ちたなら人(健常者)の100倍時間をかけ100倍頑張れば良いじゃないかただそれだけのこと・・そんな単純な事に・・今頃、気が着いた今朝であるiPhoneからの投稿
独り言

若き叔父が語りかける・・

8月15日になるといつも思うこの写真は母の実家に行くといつの掛けてあった掛け軸の叔父の写真だ幼い頃から何度も見ていたけれどこの歳になるとこの叔父の顔が何とも言えない僕に何かを語りかけているような気がする若き叔父・・20歳そこそこの若さで戦地の赴いたというそして戦死・・陸軍だったという戦死・・簡単に戦死というけれど・・戦争で死ぬのだきっと僕には想像を絶する死だったのだろう・・銃弾に倒れたのかそれもどこに当たったのか頭?顔に銃弾を浴びだ?腹に銃弾を浴びて内臓が飛び出した?それとも・・敵の兵士に殴り殺されたのか定かではないいずれにしても壮絶な死だったと想像するそのときこの若き叔父は何を思ったのか考えてしまうそして、この写真を見るとこの叔父が僕に何かを語りかけている様な気がする僕は英霊などの存在は信じないけれどこうやって戦地の赴き、戦死した叔父が身近に存在することが僕の心をどこか引き締めてくれるなんとおだやかな表情であろうかこのおだやかな表情のなかに無念さと反面、力強さを感じるのだ
人間について

「病気」は理解される 障害は理解されないのかも?

最近思うのだが身内にしろ、他人にしろ自分が苦しんでいることをどのようにどんなふうに苦しみを感じているかまでは良いけれど(それは本人でないと理解するのは不可能だと思う)少なくとも苦しいのか苦しくないのかさえ、理解してもらえないほど辛いものはないそして思うのだが理解してもらえるのが「病気」であり、理解されてもらえないのが「障害」ではないかと最近、思うのだ典型的なのが目に見えない障害と言われる精神障害たとえばアスペルガー症候群これだって外見からは全く障害を負っているいるなんてわからないでも本人はととてつもなく苦しんでいる。でも障害ってほとんどの場合苦しみの表情を見せることはないなぜなら、24時間1分1秒苦しんでいるから・・耐えているから・・だから周囲の人は気付かないもし24時間1分1秒大声を上げて苦しみもがいていたら、周囲の人は不快なだけそれがわかっているから・・それに大声を上げて苦しみもがいたところで何も解決しないから・・でも「病気」は違うほとんどが一過性のものだから「早く治癒してほしいと訴え」苦しみもがく熱も出る脈拍異常も起こす顔色も悪くなるだから周囲の人は少なくとも苦しいんだろうという...