人間について

人間死ねば雲散霧消

人は死んだら魂は永遠不滅という人いる僕はそんな事はあり得ないと考えている人間は死ねば魂など存在せず雲散霧消してすべて消滅してしまうと信じているつまり人間の身体を構成している原子である(C・ H・ O)に雲散霧消してしまうと「信じている」と言うのも証明しようのない事だから「信じている」としか言いようがないのですがただ、たとえ人間が死んで雲散霧消してすべて消滅してまおうともその人が生きた「意味」は永遠不滅に残ると思う実際に「存在物」としてはその人間はこの世から消滅するけれどその人間が存在していたことの「意味」は消えないと思う。なぜならその人が生きていた間に周囲の無数の人々に及ぼした影響はそのままその人達の中に残っていると思うからだ。例えば子供が死んでしまったときを想定するとその子供が生きていたときにその子供をかわいがり、慈しみ愛していた親はその子供の「存在」により親の人間のあり方を変化させられているのではないかもし子供が存在していなければ、「こんな」状態というか人格になっていたはずの親という人間が子供の「存在」があったことによって、別の状態というか人格に変化するのではないかと思う。その変化...
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100人居れば100種類の正しさがある

人間、誰しも自分が正しいと思っているものだと思う特ケンカをしているときなどは相手は間違っており自分は正しいと思っているものだいや、自分は正しいなんて、そんなに付け上がっていないよという人もいるでしょう。でもケンカになっているときには少なくとも相手は間違っている(つまり自分の方が正しい)と思っているはず、、そんなふうに人間というものは100人居れば100種類の正しさ(正義?)があるものだと思うたとえば、先の大平洋戦争だって(70年以上経過した現在でも)日本は日本が、アジアを欧米列強から解放する為の戦争だったから正しかったと考えている人もいるもちろんアメリカはアメリカでアメリカが正しかったと考えているはずでしょうあのイスラム国にしても歴史から突き詰めて考えるとキリスト教徒から十字軍によって残虐に虐殺されたのだからその報復だから正しいと考えているだろう話がいきなり国レベルの話になってしまったけど個人の正しさにしてもその正しさえも時の経過と共に変わることもあると思う昨日、自分が正しいと考えていた事が今日、になったら自分が間違っていたなんていうこともしばしばある100人居れば100種類の正しさが...
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ことの全ては僕の責任

あの人の気持ちも分からないではない。僕はたかが零細IT会社だったのに無理して、身の丈に合わない数千万もの借入れを信金や銀行からして返済の目処が立たない上に事業も思うように進まないプレッシャーからストレスが溜まり、その結果、超高血圧になり脳血管が切れ障害者となってしまった。ある日突然、経済的に苦しい生活を強いられるようになってしまったあの人やあの人たち僕のことを情けない男と蔑む気持ちも分からないではない。全ては僕の甘さが原因だったのだとよく考えてみれば今更ながら理解出来る。現状の酷い人間関係を修復するためにはやはり、たとえ障害者だかといって甘えることなく経済的成功をするしかないのだろう。もう55歳だ。こんな身体だけれど、まだ頑張れるかな。自分でも忍耐には自信があり、前向きに考えることにも自信があると思っていたけれど、正直そろそろ精神的にも体力的にも限界かなを感じてきている
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やっぱり関学の監督が悪いと思う

先日の同テーマの記事のコメントに彼の危険タックルは「ルール上、一発退場させられない」とのコメントがあったけれど、野球だって、デッドボールのいわゆる危険球もかつてはルール違反ではなく一発退場させられなかったけど、それでもあきらかに故意のデッドボールの場合監督は網抗議して大乱闘になったものだ。監督とは自分のチームをそうやって守る姿勢をみせてこそ、選手から信頼されついて行くのではないだろうか関学の監督はそれをしていない。
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日大の危険タックルの最大の責任は関学の監督だ!

現在、日大と関学のアメフトの大会で日大の危険タックルの責任を日大のアメフト部の監督やコーチの責任として、彼らがつる仕上げられている状態ですが僕はこの問題の最大の責任は日大の監督やコーチではなく最大の責任は関学の監督の責任だ!と考えている当たり前のことじゃないか!マスコミも、世の中人たちも、なぜそのことに気づかないのか !そもそも関学のアメフト部の部員を守る責任があるのは誰か?ということを考えてみてくださいその最大の責任は関学のアメフト部の監督じゃないのか!であるならばあの危険タックルが起こった時点で関学の監督が即時抗議すべきではないのか!なぜなら、あの危険タックルの映像を見ている限りアメフトに素人の僕でも非常に危険なことはわかる!ボールを投げて、気が緩んだ状態でいきなり背後からタックルされるなんて下手をすると脊髄損傷で下半身麻痺にもなりかねないではないかそれどころか、脊髄損傷で死亡していたかもしれないのだ!僕自身、障害者だからか強烈な怒りを感じる関学の選手が障害者になってしまう可能性がある事を放置したのは関学の選手を守るべき関学の監督だ!例えば野球だったら相手ピッチャーが自分のチームの...
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チャレンジド?は障害者に優しい言葉ではなかった?

チャレンジドという言葉は知っているでしょうか?チャレンジドとはプロップ・ステーションによるとアメリカで障害者の事を呼ぶ呼称として十数年前出来た造語です。その意味とは米語「the challenged (挑戦という使命や課題、挑戦するチャンスや資格を与えられた人)」を語源とし、障がいをマイナスとのみ捉えるのでなく、障がいを持つゆえに体験する様々な事象を自分自身のため、あるいは社会のためポジティブに生かして行こうという想いを込め、プロップが1995年から提唱している呼称だそうです。また、「チャレンジド(challenged)」は英語で障「秘密基地」「罠・仕掛け」「忍者」害者をさす。神からチャレンジという使命を与えられた人だとの事僕にはこの呼称とその意味には非常に違和感がある神からチャレンジという使命を与えられた?ほっといてくれ!そんな造語は健常者が「障害」という言葉を使う罪悪感のようなものから逃れるための造語としか思えない僕にすれば「神からチャレンジという使命」なんて障害という形で与えられたくない!どちらにせよ「チャレンジド」呼ばれても「障害者」と呼ばれても、生きていく上で身体的障害「壁」...
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死ぬのが良いのか、生かされることが良いのか

「死ぬ事が良いのだろうか、それとも医学により生きている事が良いのか」ほとんどの人はどんな事をしても生きている方が良いと答えるであろう。しかし、僕の経験上、生きている方が良いという判断はあくまでも当人の判断ではなく、周囲のある意味、自己中心的な判断、つまり生きている人間の単なるエゴイズムなのではないかと考えるようになっている。ほとんどの人の場合には死にたいという当人は死ぬ事で「楽」になるかもしれないけれど、残された親族や家族に対して激しい悲しみや心の傷を残すことになるから生きていた方が良いという理屈だろう。しかし、僕のように脳出血で死に損ない障害者となっても生きていたからといって、本当の親族や家族を悲しませず、心の傷を与えないでいる事は本当に出来るのだろうか?僕はいわゆる現代医学によって脳出血起こしても、現在でも生きていることができている。しかし、生きているとはいっても僕は本来いわゆる大黒柱である。健常者だった頃は確かに家族にとっても両親にとっても大きな柱の役割をしていたと思う。その大きな柱が死んでしまう事は確かに残された人にとっては悲しいことであろう。しかし、その「大黒柱」が現代医療に...
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自分の生きる苦しみを救ってくれる救済者としての唯一の拠り所は自分だけ

自分を救う事ができるのは唯一自分だけしかいないキリスト教やさまざまな宗教に出て来るようないわゆる神というような神秘的な救済者などはどこにも存在しない。ましてや生身の人間の救済者などいるはずがない。半身運動麻痺の苦しみも半身感覚障害の苦しみも、激烈な痛みの視床痛も生身の人間の他人に分かるはずもない。たとえ心配してくれていたとしても所詮は他人事同じ人間出ない限り、そんな苦しみなど理解できるわけもないだからこそ、自分を救済できるのは唯一自分でしかない自分のよりどころは自分であるだから、この苦しみを乗り越え、自分を救済するためには自分を鍛錬しなければならず、それしかないのだ。
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HN(ハンドルネーム)|人の噂も75日どころかそれ以下

人は皆、何故インターネット上のブログやコメント等でHN (ハンドルネーム)などを使い、実名を使わないのだろうか?僕のこのブログは初めから実名である。僕は障害者であることも特に隠す必要もないと考えているし、特にやましい事をしているわけでもない。自分がネット上に発信したことに対する批判が強いのだろうか。実際に僕もブログを始めた頃、少し政治的なことで自分の意見を述べた時、恐ろしいほど批判のコメントの嵐だった。でも僕は自分が正しいと思っている意見を書いたので、どんなに批判のコメントがあったとしても特に気にしないようにしていた。人の噂も75日などと言うけれど、実際のところ、そのようなインターネット上の批判は75日どころか、せいぜい3日ほどで皆に忘れられてしまっている感じがした。また実名にすることによって、誰かが直接的に攻めてくるようなことも一切なかったそのようなことを感じたことによって、余計にHNで記事を書く気持ちがなくなった。だからこそ、実名によってこのような障害者であることをオープンにして、さらにそのことを赤裸々に記事にすることによってリアルな記事が書けると思った。僕自身もこの障害によって確...
人間について

祈る(自分しか信じない)

神様とかいうものを全く信じない僕だけどなぜか最近祈ることが増えている。それは神様に祈るとかいうことではなく。自分の行動に対して、その結果がうまくようにと「何か」に祈っている自分がいるその「何か」が何なのかはわからないけどそれが神だと言うのなら、そうかもしれないけれど。なぜそんなふうになったのかよく考えてみると、根本的には人間不信と思う。もう50年以上生きていると様々な人間の裏切りにあうものだ。それはビジネスパートナーにも存在し身内にも存在している残念ながらそのような経緯の中で人間が最も信じられない生き物だと思うようになっている自分がいる正直言って口だけの人間が多すぎると感じている口では理想を語っていても実際の行動はしない人間が多すぎる結局、障害者である僕がやらなけばならなくなる羽目になるだから人間を信用できなくてじゃあ誰を信じれば良いのかと考えると「何か」を信じるしかなくなり「何か」に対して知らず知らずに祈っている自分がいるのだろう。結局その「何か」とは、いわゆる神様というものかもしれないけれど。自分の心の中にあるものだと思うつまり、僕自身が死んでしまい消滅すればその「何か」を一緒に消...