人間について

赦すという事

山本周五郎の言葉だけど、「赦すというのは難しいけれどもし赦すとなると限度が無いここまでは赦すが、ここからは赦さないということがあるならば、初めから赦していないのだ」その通りかもしれない。だから「赦す」なんて軽々しく言うものではないのではないか
人間について

思うがままににならぬ事を・・

思うがままにならぬ事を思うがままにしようとして思うがままにならない事が苦ご存知の方であればよく分かられている事でしょうけどこれはあの釈迦が言ったと言われている人間の「苦しみ」の事を指す言葉です。この言葉が今の僕に痛い程分かるような気がする思うがままに動かないこの身体を思うがままに動かしたいと思い苦しんでいる。思うがままにならない人間関係を思うがままにできないから僕はきっと苦しんでいる釈迦の言う思うがままにならない事とは「生、老、病、死」だけれど人類も科学の力でなんでも思うがままにならないでいる地球温暖化や自然災害今回の大阪で起きたような地震なども(思うがままに?)予知しようとしても、どうにもならない病気なら癌なんかも必死で研究して思うがままに治療しようとしているけれど結局助からない。最近なら、アンチエイジングなどと言って若々しく元気に老いる事が素晴らしい事と言わんばかりに無数の健康食品や健康法が溢れているけれど結局皆老いる。「元気に」老いる人なんているんだろうか?少なくとも僕の周りの人達は老いると、必ずと言って良い程病や身体の不具合に苦しみやがて必ず死んでいくではないかそんな思うがまま...
人間について

頑張れば頑張るたけ甘えるだけ、、

今日やっと理解したこんな身でも頑張れば頑張る程周囲が支援をしてくれると考えてきた。でもそんな考え方は間違いだったのだとやっと悟った正しいというか真実はこんな身体で頑張れば頑張る程皆、支援どころか皆、こんな障害者に甘えてきて私自身の負担が重くなるだけなのだ。皆 怠けたいだけなのだ。そんな単純な人間の本質を今ごろやっと気付いた
人間について

苦を乗り越える

身体障害者になっていつの間にかもう10年現在でまも身体的不自由も苦痛も精神的苦痛もあり、なくならないけど最近、やっとそんな苦痛に耐えたり我慢したりする事ができたとき、なんだか上手く言えないけれどそんな苦を昇華できた!という喜びのようなものを感じる事ができるようになってきたように思う今日このごろである
人間について

必要なものと欲しいもの

必要なものと欲しいものは違う現代のような飽食の時代とかモノ余りの時代と言われる時代だからこそ必要なものと欲しいものを見極める目(心?)を持つ事が大切なのじゃないだろうか僕の場合、今最も欲しいものは健常な左手と左足が欲しいこれは欲しいものじゃなくて必要なものになるのかな欲しいものだけを持つことは決して幸せとは言えないけど健常な左手や左足があれば多少今よりも幸せになれるかも知れないからやはり欲しいものじゃなくて必要なものなのかな。