今後「論破」から「承認」への転換が必要があるのでは?
最近、特にネット上では「論破」するということが素晴らしいという傾向が多々見受けられます。 一部ではこの「論破」する能力を持つ人物が頭脳明晰な勝者として、一方で「論破」された側は能無しの敗北者として描かれることもしばしばです。 でも、このような思考を問い直すべきではないのかと少なくとも私は思います。 なぜなら、「論破」というの行為自体が、しばしば他者の心象を傷つける可能性が高いと感じるのです。また「論破」よりも「承認」の方が人間のコミュニケーションの中で大切なのではないかと思うのです。 この視点の具体例として、2つ取り上げたいと思います。ひとつは、ネット上の知られるひろゆきの「論破」です。ひろゆきは非常に頭脳明晰で、その論破力は広く知られています。 ひろゆきのライブ配信やSNSでは頻繁に「論破」が見受けられ、一見するとそれは彼の知識と能力の証とも取れます。しかし、論破された側の心象はどうでしょうか。 論理的な矛盾を指摘され、自分の意見が全く無価値であるかのように扱われる。この論破された側は、多く人にとってあまりにも精神的に苦痛ではないでしょうか? 次に、橋下徹の「論破」です。 橋下徹は政...