戯れ言

今後「論破」から「承認」への転換が必要があるのでは?

最近、特にネット上では「論破」するということが素晴らしいという傾向が多々見受けられます。 一部ではこの「論破」する能力を持つ人物が頭脳明晰な勝者として、一方で「論破」された側は能無しの敗北者として描かれることもしばしばです。 でも、このような思考を問い直すべきではないのかと少なくとも私は思います。 なぜなら、「論破」というの行為自体が、しばしば他者の心象を傷つける可能性が高いと感じるのです。また「論破」よりも「承認」の方が人間のコミュニケーションの中で大切なのではないかと思うのです。 この視点の具体例として、2つ取り上げたいと思います。ひとつは、ネット上の知られるひろゆきの「論破」です。ひろゆきは非常に頭脳明晰で、その論破力は広く知られています。 ひろゆきのライブ配信やSNSでは頻繁に「論破」が見受けられ、一見するとそれは彼の知識と能力の証とも取れます。しかし、論破された側の心象はどうでしょうか。 論理的な矛盾を指摘され、自分の意見が全く無価値であるかのように扱われる。この論破された側は、多く人にとってあまりにも精神的に苦痛ではないでしょうか? 次に、橋下徹の「論破」です。 橋下徹は政...
戯れ言

無力な僕と国民の声と流れる時間 – 我が国の政治の現状

また今日も、テレビのニュースは国会の予算議論の模様を放送していた。総理も、与党も、野党も、みんなみんなが同じ繰り返し。既得権益層の欲を満たすために流れる予算、それを止めることができない現状に僕は胸が苦しくなる。 新たな制度の導入や改革の提案があっても、結局は既得権益層の意向を鑑みるという言葉が飛び交い、いつものように予算は適当なところへと流れていく。 彼らの政治家の仕事が国民のためなら、そんな無駄遣いは許されるかもしれないとも少なくとも僕は感じる。しかしそれは全く逆さまであまりにも当然の常識であることに僕疲れてしまう。 国民の願い、それは何よりも僕はこの国を良くしたいという一心だ。教育、医療、社会保障、すべてが改善されることを少なくとも僕は願っている。それなのに、なぜ僕らの声が届かないのだろうか? 多くの国民が思っていることは、僕だけではないはずだと思う。なのに、なぜ政治家たちは僕らの声を無視するのであろうか?。総理も与党も野党、何故既得権益層に歯向かう事ができないのだろうか。 この問題は単に政治家たちの問題だけではないように少なくとも僕は感じている。僕ら国民一人一人が声をあげ、意見を...
人間の生き方

人生の激変を乗り越え、認定コーチとしての僕の新たな挑戦だ

僕は左半身不随の障害者になってから15年目にして新たな一歩を踏み出しましたので、今回はその経緯をお話ししたいと思います。 僕のこのブログをアメブロ時代から読んでんもらっている人はご存知のように僕は2008年のリーマンショックの金融危機という世界的な混乱の中、脳出血を発症、で左半身不随の障害を負いました。 それはまさに、僕の人生におけるリーマンショックでした。僕が経営していた会社はその翌年に廃業し、僕自身も自己破産して、僕の世界は激変しました。 しかし、時間は待ってくれません。悔し涙を流しながらも、僕は何とか生きていく道を見つけました。リハビリ、自立訓練、そして、自身の精神的な調整。障害者雇用枠での契約社員として低処遇での苦痛の仕事・・これらが僕の日々の生活となり、小さな日々を重ねていきました。 僕の人生は15年の時間を経て、さらに激しい変化を迎えました。5年前には離婚し、愛する父もこの世を去りました。僕は深い悲しみに覆われましたが、それでも前に進むことを決めました。何故なら、僕は生きているからです。人生を諦めない、その一心で。 そして、僕は2021年、一大決心をしました。新たな人生のス...