今後「論破」から「承認」への転換が必要があるのでは?


最近、特にネット上では「論破」するということが素晴らしいという傾向が多々見受けられます。

一部ではこの「論破」する能力を持つ人物が頭脳明晰な勝者として、一方で「論破」された側は能無しの敗北者として描かれることもしばしばです。

でも、このような思考を問い直すべきではないのかと少なくとも私は思います。

なぜなら、「論破」というの行為自体が、しばしば他者の心象を傷つける可能性が高いと感じるのです。また「論破」よりも「承認」の方が人間のコミュニケーションの中で大切なのではないかと思うのです。

この視点の具体例として、2つ取り上げたいと思います。ひとつは、ネット上の知られるひろゆきの「論破」です。ひろゆきは非常に頭脳明晰で、その論破力は広く知られています。

ひろゆきのライブ配信やSNSでは頻繁に「論破」が見受けられ、一見するとそれは彼の知識と能力の証とも取れます。しかし、論破された側の心象はどうでしょうか。

論理的な矛盾を指摘され、自分の意見が全く無価値であるかのように扱われる。この論破された側は、多く人にとってあまりにも精神的に苦痛ではないでしょうか?

次に、橋下徹の「論破」です。

橋下徹は政治家としても、そしてテレビのコメンテーターとしても、その鋭い「論破」で知られています。橋下氏の言葉は明快であり、人々を惹きつけますが同時に橋下氏の「論破」はしばしば相手を傷つけ、対話を終結させる結果を生むことも多々あります。

上述のようなことから、「論破」が必ずしも良い結果を生むわけではないと少なくとも私は思います。

確かに「論破」できる事は論理的な思考力を示すものであり、一時的には魅力的に映るかもしれませんが、対話やコミュニケーションの目的は一方を「論破」することではなく、理解し合い、互いに学び、成長することにあるのではないでしょうか?

それに対して承認」は他者の意見や感情を尊重し、対話を通じて理解しようとする態度と思います。を示します。「論破」は一方的な勝利を追求しますが、「承認」は対話を通じて互いに成長し、深めることではないのかと少なくとも私は思います。

そのため、「論破」よりも「承認」へと視点を転換するべきだと少なくとも私は思います。「論破」するための知識や技術を身につけるよりも、「承認」するための視点や技術を身につけることが、私たちの対話を豊かにし、人間関係を深めることに繋がると少なくとも私は思います。

投稿者プロフィール

岡下俊介
岡下俊介代表
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。
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