人間の生き方

自分の、そして息子の生命力を信じる

生命力を信じる僕は出血性のもやもや病なので、10年以内に再出血する確率が30%とか40%とか非常に高いそうだ。そのことは2年前の発症当時に言われた。するよう言われた瞬間は、本当に目の前に「死」という文字がぶらさがった感じがした。そして正直言って死をを恐れた。怯えに怯えまくっていた。こんな杖突きでしか歩くことが出来ないような体ではちょっと階段を登るだけでも血圧が上がって出血するんじゃないかなどとビクビクしていた。情けない話だけれども本当にビビッてた。もしもそのような精神状態のままだったら今の自分は無かっただろう。ある日僕は父親から「お前は生命力がある人間なんだ。いざというときには助かる人間なんだ」と言われたことを思い出した。実は僕は生まれて3ヶ月で肺炎を患い、死ぬ寸前まで弱ってしまったそうだ。当時の医師からも「もうこれ以上生きるのは難しいでしょう」と私の両親は言われたそうだ。私の母に日記にもそれは残されている「初めての子供は死ぬかもしれない。そう考えるとおむつのウンチでさえ愛おしく感じる」そんな日記が書いてあったのを昔飲ませてもらったことがある。するところが、僕は奇跡的に回復したのだ。生...
人間の生き方

天命を知り、天命を享受できるようになりたい

僕が生きる上で起こることは全て僕の天命である。これまでかかった病気も、今の妻と結婚したことも、そして僕が脳出血を起こしたこともさらには今の息子が僕の病気を遺伝で受け継いでしまったことも全ては天命である。天命とは決して神様というようなものから与えられたものではなくこの宇宙の大自然の摂理に従って起こったものだと考え甘んじて享受するという気持ちになるようにしよう。世の中見渡してみるとさまざまな人生を歩んでいる様々な人間が生きている。この世の中に起こっていることは全て自然の摂理に従って起こっていることなのだ。病気になることもいずれは死ぬことも、それに逆らおうとするから苦しむのだ。そして不安になり、焦り、おののき、あげく人を傷つけ、憎み憎しまれ、怒り、悲しむのだ。本当の幸福とは何もお金持ちになることではない本当の幸福とは心の安寧だ。心の安寧こそ最大の幸せだ。心の安寧から知恵も力も、勇気さえ湧くなのだ。そんな心の安寧を得るためにも、自然の摂理に逆らわず、この身に起こることは全て天命と捉え、そして苦境は今よりもっと強くなるための試練と捉え、甘んじて享受できるようになりたいものだ。
人間について

命を繋ぐということ

生きとし生きるものは全て今の自分の命を未来に繋げることを最大の目的としている。命を次の世代に引き継ぐことが最大の目的なのだ。どんな小さい動物でも親は子が生きることを守ろうとする。命を繋ぐためだ。それは人間も同じだと思う。以前聞いたことがある話ですが、太平洋戦争末期、日本の神風特攻隊で死を覚悟した男達が出撃の際、その男達のなかで自分が死ぬことに対して最も悔やんだ兵士は妻や子供を残してきた兵士ではないむしろ子供はできていない兵士の方は悔やんだそうだ。それは自分が生きた証をこの世に残すことが出来ないという悔しさだったそうだそれは命を未来につなぐという本能的な「生きる使命?」を達成出来ないことに対する無念の気持ちだったのだろう。虫などの小さな生き物は次の世代に命をつなぐために、次の世代が生き延びるために、できるだけたくさんの子供(卵)を生む。それは弱者である小動物が未来に命を引き継ぐために、天敵に襲われない子供を少しでも残すためだ。人間以外の動物のほとんどは遺伝情報によって生き方を伝える。だから生まれた段階で生き方「生き延びる術」が備わっている。しかし人間は子供が少ない上に遺伝情報だけでは生き...
人間について

心の限界

もう我慢出来ない!もう限界だ!本当に死んでしまいたいこの2年半そんなことを思い何度も自死を考えた。でも僕は今、自死などすることなく生きている。あの「もう限界だ」という感じは何だったのだろう。。そのときは本当にもう限界だと感じていたと思う。今思うとその「限界」とは本当に限界ではなかったんだと感じる。自分が限界だと思うから限界だったのだ。ただそれだけのこと・・・心の限界なんて存在しないのではないだろうか。。限界だと思う心が限界を作ってしまっているのではないだろうか。自分で自分の限界を決め付けてしまっているのではないだろうか。そんな状況を乗り越えられた秘訣は目の前に、自分に起こっている現象(限界だと感じる、辛いと感じる現象)を何かのきっかけで別の角度から捉えることができたのではないかと感じている。そんなときに限って、一つの道しか見えていないものだと思う。その一つの道しか見えないから八方塞がりを感じてしまっているだけなのだろう。富士山は西からでも、東からでも登ることができる西の道が悪ければ、東から飲むればよい、時と場合に応じて自分に合った道を自在に使い分ければよいのだ。にも関わらずなぜか人は一...
人間について

空気のように生きる

僕は今でも1日24時間「障害者」であることを思い知らされている。でも周囲の人は多分そうでは無いのだろう。僕も健常者のときはそうだったのだが、体の不自由な人や重い病気で苦しんでいる人を見ても大変だな、、可哀想だなとその人のことを「思いやる」気持ちになるのはその瞬間だけだった。でも、いつの間にかその人のことは忘れている。その人は多分その瞬間だけでなく、僕は忘れているときもずっとずっと苦しんでいたに違いないのだ。平たく言うと「所詮は他人事」なのだ。一緒に生活でもしない限り、思いを寄せ続けることはない。でもその人は僕が見えないだけで、存在し苦しみ続けているのだ。決して46時中思いやってほしいなどと思っているわけではないのだが(そんなこと不可能だとわかっている)最近何か「忘れられている」感を感じてしまうのだ。「忘れられている感じ」=つまり自分の存在が消えている感じ妻や息子でさえそう感じる僕を心配してくれている両親でさえもそう感じる僕が半身麻痺なった当初、周囲はでも気遣ってくれた。でもそれは「当初」だけだった。そしてだんだんと「僕は障害者であることが当たり前」という感じになってきているような気がす...
人間について

人は思うがままにならぬ事で苦しむ

人は思うがままにならぬことを思うがままにしようとして、思うがままにならない事で苦しむ。相手を思うがままにしようとして、自分の子供を思うがままにしようとして、自分自身を思うがままにしようとして、思うがままにならないがゆえに人を傷付つけてしまったり、人を憎んだり、怒ったり、自分を悲しんだり、更には「病、老い、死」までも思うがままにしようとして、決して逃れられないにも関わらず、逃れようとして逃れられないから苦しむ。自然の摂理に従わないから苦しむ。人は自然の摂理までも思うがままにしようとしているのではないか。だから苦しむのではないか。確かに死も病も誰にでも訪れる自然の摂理といえど、これらは人間にとって受け入れ難いものである。しかしそれらを自然の摂理として素直に受け止めることができれば、本当の心の平安が訪れるのではないだろうか。今を有意義に生きることができるのではないか。
人間の生き方

有意義に生きるために死を怖れない心が必要

ある方から僕のブログを読んでかなり長文のメッセージをいただきました。その方は僕が死=無であるということに対してそれは悲しいことです。「存在(神?)」を信じてほしいあの世が存在するということを切々と訴えておられました。もちろ善意なのでしょうが、僕にとっては死=無いう考え方は変わりません。なぜ死=無と考えるのか。それは悲しいことなのか?決してそうではありません。あの世が存在したり、死後に魂が残るということの方が悲しいと考えるからです。なぜ悲しいのか?仮にあの世が存在していたとします。そして死後、魂が残っていたとします。そのとき残った魂や死後たどり着いたときの「あの世」からこの世に残っている愛する(愛した)人々とはコミュニケーションは出来ません。どんなに努力しても自分の魂の「存在」を知らせることも出来ず、コミュニケーションも出来ず「つながり」を持つことは出来ません。それは人間にとって究極の孤独だと思うのです。究極の孤独=究極の地獄だと思うのです。これほど苦しい地獄は無いと思います。だから死後は「無」であることの方が僕はずっとずっと幸せだと思うのです。そうなれば「幸せ」ということさえ感じないの...
人間について

心に義足は付かない

肢体が不自由になっても足が不自由になっても、何とか義足で生きていける手が不自由になって何とか義手や工夫と知恵で生きていける。でも・・心が壊れてしまったら、、心には、魂には、義手も義足もつけることはできない。魂が壊れてっしまったら心が壊れてしまったら意欲もなくなり、知恵も工夫もでない。そうなったら人間は終わりだしかし、心さえ、魂さえ、壊れなければ、たとえ手が不自由でも、足が不自由でも、意欲を燃やすことができ、意欲が知恵と工夫を生み出し、再び力強く生きていける。