人間について

身体をつかわないと記憶力まで落ちる

僕は今、左半身が使えない事で、全く想像もできなかった、人間としての機能の低下に驚くと共に、ちょっと(かなり?)ショックを受けているそれは「記憶」という能力の低下だ僕は今、仕事場で自分のできない事は仲間にお願いするようにしているたとえば、一定以上の容積や一定以上の重さの荷物で片手では運べないような作業だ。片麻痺で、できない事はできる健常者に頼めば良いじゃないかそう考えてた、、健常者の頃のように何もかも自分でやる必要はない。これからは「人に頼む」という事を躊躇なくした方が良いそう考えて、人に頼むそれで解決するところがそうする事で思わね自分の能力の低下?が起こる事に気付いたたとえば、ある左側にあり自分では移動できないものがあるとするそれを仲間に移動したい場所に移動し、置いてもらうそこまでは良いところがその移動した事や移動した場所を比較的短時間で忘れてしまうのだなぜなら、自分の身体を使って移動という「作業」をしなかったからだと思う。つまり身体が「移動した事」を覚えていないのだ。身体に「移動作業」という「経験」をさせていないからだと思う「身体で覚える」事ができていないがゆえに、頭にさえもその記憶...
人間について

無私無欲は疼痛をも乗り越える

無私無欲の境地になれば今僕が苦しんでいる脳卒中の後遺症の疼痛にも打ち勝つことができる先週、ある出来事でそんな確信ができた・・というか気付きを得た先週、仕事上で苛立ちと焦りを感じる問題が起きたその後だった・・疼痛の猛烈な痺れと痛みが襲ってきたでも、自分のこだわりや思い込みを心の中からできる限り排除し、気持ちを落ち着け冷静に客観的に問題の捉え方と対処方法を考え始めたとき疼痛が徐々に治まってきたのだ・・この現象を僕なりにこう自己分析している「心の苛立ちと焦り」というものは「緊張」すると手汗をかいたり、心拍数が上がるのと同様に自律神経(特に交感神経)を刺激するそれは僕が低気圧の接近で痺れが酷くなるのと同じつまり高気圧や低気圧のによる気圧の変化や大気中の酸素の変化が自律神経を刺激するから損傷した脳に悪い刺激を与え、痺れや痛みがひどくなるということは・・苛立ちと焦りは「自我」から起こるつまり「自我」≒「思い込み」や「こだわり」に反する状況が生まれると人は心の苛立ちと焦り或いは怒りを覚えるその結果自律神経を刺激し、損傷した脳に悪い刺激を与え、痺れや痛みがひどくなるそう考えると心の安寧こそが疼痛を和ら...
人間について

分かってんねんやん

週1回行っているリハビリ時のもらうリハビリ計画書を何気なく見たするとそこの診断項目に今まで気付かなかったが・・「痛み:耐えきれない痛み」とあった・・なんや療法士さん分かってんねんやん・・と思ったけど・・目標項目に「痛みの緩和」は書いてなかった・・(^_^;)やっぱりこの痛みの解消は難しいんや・・(-_-)とこの診断書をみて、あらためて認識・・した。。いつ痛みは解消するんかなぁ・・そういえば国会議員で脊椎損傷した障害者の八代栄太議員も慢性疼痛と36年も付き合っているってどこかに書いてあったなぁ36年・・それは長い・・長すぎる・・でも耐えている人もいるんや僕も頑張らんとあかんなぁ!僕のその診断書公開!
人間について

障害は個性か?

僕は以前、ある人から「岡下さんのことを『障害者』だとは思っていません。個性だと思っています」と言われたことがあるその人なりの私への心配りだったのだろうけど、どうも「障害=個性」という部分が引っかかった・・正直、「障害は個性というようなそんな甘いものだろうか」「障害なんてそんな甘いものじゃない」というのが僕の本音だった・・それでちょっとネットで調べたら、どうやら大ベストセラーになった乙武さんの著書「五体不満足」がその語源らしいことがわかった。そこでもっとよく調べてみると、、多くの方が「障害は個性」=乙武氏の言葉と思っているように感じますが、後のインタビューで乙武氏は、「障害は個性などとは言っていない、この言葉が一人歩きしている」と発言されています。本の帯や宣伝文句に「障害を個性としてとらえ・・・」とのような広告文があり、それにより障害者本人である著者の乙武氏の言葉として広まってしまったようなのだならば納得できる・・個性とは・・僕なりの解釈では個性とは「自分らしさ」だと思っている僕の「自分らしさ」それはたぶん障害者になる前の自分に本当の「自分らしさ」があったように思うそして今、その「自分ら...
人間の生き方

死ぬことよりも、、、

愛するひとのために命を厭わない自ら進んで死ぬ、、或いは昔なら、主君のために、国家のために、命を投げ出す、、そういう死は犠牲の精神の美しさはあるかもしれないでも、やっぱり与えられた人生を生き抜く事にははるかに及ばないと思う障害者になって初めてその事がよく分かったような気がする死よりも与えられた運命を生き抜く事の方がはるかに難しいってこと、、この4年間、、障害による身体の不自由障害による日々の身体を襲う激痛と痺れ社会生活において日々何度も味わう屈辱感、、生きる事の方が死ぬことよりも、はるかに難しく、苦しいだからこそ、僕にとって与えられたこの運命を生き抜く事に大きな意味があると思うだからこそ最後まで生き抜きたい
人間の生き方

『おのれ』を棄てる

昔、、侍とは・・「『おのれ』を棄てたものだ」そして「さむらいには生死ともに自分というものはない」と言われたそこで・・僕自身、「『おのれ』がある」から障害に対して悲しみ、悔やみ、苦しむそして自暴自棄になる瞬間があると感じている障害を負ってからもう4年も経つけど、まだ苦しいときがある。『おのれ』とは「自我」だと思う「自我」・・これほど困ったものはないと僕は思う「自我」があるから苦しむ「自我」さえなければ、物理的な「痛み」さえも耐えることができると僕は思っているなぜなら、僕の場合、心に緊張や不安が走るだけで、麻痺側の痙性が強まり、(おそらく自律神経のせいだろう)痛む、痺れるこんな麻痺の疼痛の経験からも精神(心)は痛みと連動しているとつくづく感じている「心が緊張し、不安になる・・」これは「自我」があるからだ『おのれ』があるからだ何も精神論だけで『おのれ』を棄てることが良いと思っているわけではない物事の判断の客観性も失わせると思う「自我」というものは「こだわり」や「思い入れ」といったような心を生む「こだわり」や「思い入れ」は客観性を失わせる大きな原因と思う「こだわり」や「思い入れ」は主観的で、冷...
人間の生き方

諸行無常、、元には戻れない

最近、息子がマラソン大会のために朝から走っている、、僕からみると頼りないすぐにヘバるのかすぐに帰って来てしまう僕はここ2、3日の朝の冷え込みに身体が着いていかず、痙性が強くなっている身体を元に戻すのに精一杯、、こんなときもし、僕が、健常者だったら「もし、」は考えちゃいけないって分かっているけれど、もし、昔のように元気だったら一緒に並走して、応援しながら走り方なんかアドバイスしてあげられるのに、、って思ってしまう考えても無駄、、諸行無常、時間は戻らないって分かっているけれど、、考えてしまう、、
人間の生き方

今の僕の心にしみる言葉・・

今の僕の心にしみる言葉・・山本周五郎さんの小説に出てくる以下の言葉・・かな--人聞はみな同じような状態にいるんだ、まぬがれることのできない生と死のあいだで、そのぎりぎりのところで生きているんだ----人間はもともと弱いものだし、カのあらわれは一様ではない、鉄石の強さも強さ、雪に折れない竹の援みも強さだ、ここで剛毅心をふるい起こすよりは、この虚しいもの淋しさを認めるほうが、おれにとっては強さであるかもしれない---
人間について

人間が生命力を発揮するときって・・

人間がその生命力というものを発揮するときってどんなときだろうって考えた考えれば考えるほど難しい・・人は「身体」に瀕死の重傷を負ったときなどは必死に生きようとするでも、たとえ五体満足でも・・どんなに裕福でも//「心」が病んでいたり「心」が傷ついたりすると人は死を選択しようとする・・今、シリアなどの中東では毎日のように瀕死の重傷者が出ている彼らはそんな中で必死で生き抜こうとしている。でもこの平和でモノの豊かな日本では2010年の自殺者は31690人もいるという近年心の病を持つ人が急激に増えているという厚生労働省は2011年7月、これまでの日本における4大疾病、がん、脳血管障害、糖尿病、心血管疾患に、うつ病を中心とした精神疾患を加え、5大疾病とすると発表したという日本人に生命力を発揮させる施策って中東のような状況になること????矛盾だ・・皮肉だ・・難しい・・
人間の生き方

希望作りをはじめよう

もし、この僕のブログを読んでくれている若い人たちの中で「希望」を持てない人がいるのなら或いは「希望」を持てないでいる人がいたら僕は言いたい心の中に希望作りを始めよう・・となぜなら希望とは僕なりの言い方ですが希望とは「心の中に志を持つこと」だと思ってます志って難しい言い方のようにも思うけどもっと簡単に言うと自分が「やりたいこと」だと思ってます。「やりたいこと」ってたとえ病気のときでも僕のように身体が不自由でも心の中に持てるはず・・よく「希望の持てない世の中」なんて言う言い方をしますがそんな「希望の持てない世の中や状況」や或いは「希望の持てない身体の状況」っなんて存在しないと僕は思うどんなに苦しい状況でも、苦しい身体でも心の中に「やりたいこと」って心の中に持つことはできるはずだし持つのも自由僕の障害者になってしまったという狭い経験からでですが心の中に「本当にやりたいこと」を見つけたときそして作れたとき、僕は心に希望を持てたときだと思う心の中に「本当にやりたいこと」ができたとき次にできる(起きる)のは自分自身の心から発生する「やるべきこと」或いは「やらなければならないこと」それ決し他人から押...