人間について

後振り向かない。過去は忘れた。

どんなに悲しかろうがどんなに憎い出来事だったろうがもう後は絶対に振り向かない。もう過去は忘れた。前を向いて、前を向いて、前を向いて、そして前を向いて、どんなに痛かろうが体が動かずどんなに苦しかろうが、どんなに情けないと感じようが、負けてたまるか!何が何でも実現する!何を言われても構わない。ただ一筋にわが道を行く!
人間について

ありがとうと言われたい、ただそれだけ

ありがとうただ「ありがとう」と言われたいだけなのです。先日僕がやろうとしているNPO法人の事業についてある社長に話をしましたところ「そんなビジネスモデルでどうやって収益を出すの?」といろいろビジネスとしてのあるいは事業としての課題を指摘されました。入っていることはもっともな話でした。これを一般の企業のように「収益の最大化」を目的とするならば、指摘された課題やアドバイスは正しいと思います。企業が「利益を最大化」できるということは、その企業が出すサービスや製品が、世の中から必要とされている証拠であり、そのことによって雇用創出できるとよく言われます。確かにそのとおりでしょう。でも僕は今回の事業をはじめようとしたきっかけは、障害者になってしまったとき、自分はもう役に立たない人間になってしまったのではないだろうかという言葉には表すことのできない何とも言えない挫折感・失望・喪失感などを乗り越えるため、障害者になってしまった自分がまだ役に立つ人間であるのかということを確かめたい、いや何としても役に立つ人間であり続けたい、そしてたとえ障害者であっても人の介助を受けながら生きていくような人生を送りたくな...
人間について

悔しくて、悔しくて、悔しくて、もどかしくて、もどかしくて、悔しくて、悔しくて、

今日エンジニアの会合があったのは、マンションの一室だった。ひとしきり、話が終わり解散となって皆が帰るとき、僕も玄関に行って靴を履こうとした。マンションだから、かまちがない部屋と玄関の段差は、ほんの1センチほどだ。僕は、左足が麻痺してつま先ではうまくバランスがとれないので「しゃがむ」ことができない。だから靴を履くときには最低でも30センチくらいの高さのかまちかもしくは椅子に座った状態でないと、靴を履くことができない。そんなことは分かっていた。でも立ったまま少し膝を曲げて履いてみようと挑戦してみた。しかし・・案の定その場で転んでしまった。いったん転んでしまうと、左手は全く力が入らないし左足も力が弱くバランスがとれないので、で立ち上がることがとても難しい。右足と右手だけで立ち上がらなければならない。周りの人達は、「大丈夫ですか」「どうすれば良いですか」と手助けをしてくれようとした。それはありがたい感謝の気持ちが湧いてくる。でも・・・僕の心の中は、情けない・・情けない・・情けない・・そして悔しい・・悔しい・・悔しい・・靴を履くことさえまともにできないのか・・・そんな思いが心の中に走り回るなんだ...
起業・ビジネス

底辺で日本を支える零細企業のエンジニアたち

今日、僕のブレーンの紹介で関西地区の中小企業のエンジニアリング業界の人たちとの懇親会があった。彼らは皆、零細企業の社長、もしくは個人事業主である。ビルなどへの幹線ケーブル埋設、電送設備工事の専門家たちだ。彼らの話を聞いていて思った。こういう人たちこそが、今の日本を底辺で支えているのだ。彼らは自分たちの仕事に対して妥協がない。もちろんできないことはできないとはっきり言う人たちだ。しかしい一旦できると言って引き受けたからには、徹夜してでもやり遂げるという根性がありそして自分たちの技術に対して誇りを持っているように感じた。僕は聞いてみた。こういった工事でいちばん大切なものなんですか。「精神力です」これだけだった。つまり最後までやり遂げる精神力だというのだ。こんな幹線ケーブルや電気系装設備の工事は非常に地道な作業だ。彼らはういう仕事に対して他の業者より絶対に負けないという誇りを持っているように感じた。これこそが日本の本当の底力ではないだろうかと感じた。世間から注目されるような最先端技術でもない。こんな地道な仕事に誇りを持って臨むことができるメンタリティこそが、日本の安定したインフラを支えている...
人間について

あの世なんて存在しない方が良い、死後は無になったほうが良いと考えるようになった理由

僕は死後にあの世なんて存在せずに、無になった方が絶対に楽だと考えています。あの世という世界を考えたのは人間は自分が死んだとき、自分の「意識」までも消滅するとは考えにくいからだと思います。それと自分で意識が消滅するということを想像することが難しいと同時にある意味恐怖感を抱くからではないでしょうか。でも僕は違います。僕が「あの世なんて存在しない方が良い」「死後に魂なんて起こらない方が良い」と考えるようになったのは、脳出血で障害を負った当初、「自分は何の役に立たない人間になってしまった」という思い駆られ自暴自棄になってしまった時のことです。自宅に居ても常時ベッドに寝ているだけ1日24時間天井を見ながら過ごす日が続きました。このとき味わった強烈な「孤独感」です。この孤独感というものは地獄でした。(多分味わったことのない方には理解し難いと思いますが、)役に立たない人間であると感じていると同時に人とのコミュニケーションが絶たれる状態と言うのは予想以上に辛いものです。この時に思ったのです。死後、肉体が滅び、「魂」とかいうものだけが残ったとしたら同じ状態ではないだろうか「魂」には意識だけは存在するけれ...
人間の生き方

因果応報か確率か

みなさんご存知の通り仏教には因果応報という言葉がある。因果応報とは簡単に言えば人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるという意味です。僕的にどちらかというと理系的な視点から「すべての(事象)結果には原因が存在する」という風に理解している。つまりは現在の自分が存在するのは過去の行いの結果である。ということです。ビリヤードで例えると、突いた玉への角度や力によって転がる方向が決まり、結果としてどの玉が穴に落ちる落ちないかが決まるのだ。しかしこれとは真っ向から反対する理論が量子力学というものがあります。量子力学では原因にかかわらず、全ての事象が確率の結果だということになっている。これもビリヤードで例えると、突いた玉への角度や力には全く関係なく、どの球が穴に落ちるかはすべて確率で決まるのだということになる。アインシュタインはこれに対して猛反発している。「すべての事象には必ず法則がある。神はサイコロをふらない」と言った僕が脳出血で半身不随の将来性になり、自分の会社もなくし、無収入になり、毎日苦しい思いをしなければならないのは何かの因果応報なのかと問い続けたこともある。なぜ...
人間について

元気そうだね

先日久々に会った友人が僕に言った第一声「元気そうだね。その分じゃどんどん回復するんじゃない?」元気づけるために言ってくれたんだろうけど、僕は心の中で何が「元気そうだ」なんだよと思ってしまった。勿論顔には一切出さず、ニコニコしていたが・・元気そうじゃないんだよ!元気そうにしているだけなんだよ!毎日24時間46時中苦しんだよ!わかるか!と言うのがホンネだった。脳の損傷による疼痛の苦しみなんてこんなもんさ通常の痛み止めどころかモルヒネさえ効かないんだとさ耐える以外に方法はないんだよそれもいつまで耐えれば良いのかわからない。。1週間や2週間じゃない5年か10年かもわからない、それさえもわからないだから無私になりたいよ
人間について

苦しいから、

毎日が24時間46時中苦しいから無私になりたい。。ただそれだけ・・なんで僕はこんなに苦しまなきゃいけない?朝起きるのも苦しい(障害者になってからというものこの2年間すがすがしい朝など一度もない。)トイレに行くのも苦しい着替えをするのも苦しい。食事をするのも苦しい。靴を履くのも苦しい。水のシャワーは鬼太郎の毛針のように痛く感じる」散歩なんて地獄の特訓に近い苦しさだ。なんでこんなに苦しまなきゃいけない。誰か教えてくれ喜怒哀楽の「怒哀」ばかりだ。だから「無私」になりたいこれって死にたいということとイコールかな?
人間について

感情のコントロール

人間誰しも感情というものがある。その人自身の「自我」からくる「感情」というものだろう。この感情というものは非常にやっかいなもので、これが、「こだわり」を生み「偏見」を生み冷静な行動ができなくなり、結果として対立が起こり、果ては戦争などというものになってしまうのではないだろうか時に人間は自分の感情をコントロールできなくなり周囲に対して迷惑をかけることがある。「抑えきれない感情」というものを誰しも持っている。でもこの感情を抑制するためにはどうすればいいのだろう。僕も障害者になってから自分のふがいなさから家族に対して感情を爆発させそうになってしまうことが非常に増えてきた。本当に些細のことが原因で、抑えきれない怒りや悲しみなどの感情があふれ出てくる。こういった感情は、「自我」が存在する限り抑えることはできないのではないだろうかと思う。だからこそ「自我」をなくすことができれば、そんな主観的な感情は沸き起こることもなく、沸き起こらないので「自制」する必要さえなくなるのではないだろうかそんなことを思い、僕は抑えきれない怒りや悲しみの感情が湧き上がってきたときは、いつも「無私」と唱えるようにしている。...
中国

GDPがその国の経済力の指標にならない日が来る

中国がGDP世界第二位となり、日本は生産力世界第2位という地位を中国に明け渡すなければならなくなった。メディアではこのことを日本の国力(経済力?)の低下だと不安を煽っているが本当にそうだろうか今の時代、生産力が国の経済力、あるいは国力を示す指標にはならなくなってきているのではないだろうか例えばドイツやイギリスなどのヨーロッパ諸国は、とうの昔に、GDPを日本に抜かされてしまっているがこれらの国々の国力「国際的地位」というものが低下しただろうか。最近、日本のモノづくり企業の海外進出による技術流出が懸念されているが、技術流出が本当に日本の国益を損なうのだろうか技術とはわれわれの生活を向上させ、社会を発展させるものだ。目 に見えて生活を向上させ、社会発展させる力を持つ技術であるがゆえに金銭が絡み、特に中国の間ではしばしばもめごとの種となっていることが多いのは事実だと思う。でももう少し違う視点で捉えるとどうなるだろうか大きな視野に立って考えると技術を人類の共有財産と考えるべきではないだろうか。そんな視点から考えると、日本の技術が中国や外国へと流出し活用されることは、長い目で見ると非常に重要なこと...