独り言

何もかもがいつもギリギリなんだよ

最近、僕はいろんなことをやっているいろんなことができるようになってきているそんな僕を拾遺は気安くいろんことができるようなってきた僕を気安く「元にもどってきた」と思っているかもしれないでもねいついつもギリギリなんだよ椅子に座ったり、椅子か立ったろすることでさえ必死なんだよ決して「普通に」できているわけではないどんな動作の瞬間でもギリギリなんだよ必死なんだよこうやってタイピングをしているときだって片手だけでタイピングすることがどんなに面倒で辛いかいつもミスタイプにイライラし切れそうになりながらながら、修正、修正の連続でタイプしているいつも気持ちはギリギリなんだよだからすぐに頭に血が上るんだよそんなこと言っても仕方がないか・・理解してもらえるわけでもなし、、だからどうすればいいんだよって言われちゃ何も言えないし。。ね
人間について

今を精一杯生きる

今を精一杯生きるそれでいいのだ(今のこの身体でできる)やりたいことを思いっきりやろう形振りか待っている暇はない人生は一回きり人生のやり直しは一切効かない生まれ変わりの人生なんてあり得ないし、輪廻なんて信じてないんだし!だったら今を精一杯楽しもう障害を負ってしまったことは仕方ない嘆いてもどうにもならない嘆いている時間がもったいない今この瞬間を・・精一杯た楽しく、そして限りなく後悔の無いように生きよう
人間について

障害に「慣れる」のは周囲の人

今日ふと気が付いたことがある・・昼食にレストランに行った・・レストランに入ろうとしたときレストランから人が出てきた僕が入ろうとしたとき出てこようとした人のひとりが僕が片麻痺であかることに気付いたようだな僕は左麻痺で右手に鞄を持っていたその人は咄嗟に僕にドアのノブを持つ手が無いことに気付いたのか、親切にも入口のドアを開けて僕が入るまで開けていてくれた。。ありがとうございます。僕は礼を言いながら中に入った障害者への気遣いだったふとこの光景、以前にもあったなと思ったそうだ今の夕方から行って行っている会社に初めて出社したときだそのときも、僕を気遣ってドアを開けてくれたたぶん以前の健常なときの僕とのあまりのギャップによる気遣いだったのだろうでも今は・・ないふと思った障害に「慣れる」障害者本人ではなく、周囲の人々ではないのか以前も書いたように中途障害者が自身の障害に「慣れる」なんてことは永遠にない!なぜなら、健常な頃の自分のイメージが永遠に(死ぬまで)消えることはないからだ。そのイメージが残っている限り健常な頃に自分とのギャップに苦しむ「慣れる」なんてことはあり得ない「受容」もありえないでも周囲の...
人間について

身体障害という病

人は身体が傷付く(外傷を受ける)と生きようとするけど、心が傷付くと死のうとするでも、身体障害という病ってやつはその両方を傷付けるから厄介だもう死にたいと言う気持ちとまだ生きていたいという気持ちが交錯し、自分が何を求めているのかさえ分からなくなるときがある
独り言

自分の荷を軽くする事は他人の荷を重くする事

自分の荷を軽くすることは、それだけ他人の荷を重くすることにしかならない。人間の世の中なんてそんなものだと思うそんな風にお互い相互依存で成り立っているものだと思う会社の上司・部下の関係でも同じだと思う管理職になって、部下に仕事を任せる事で仕事全体が効率良くなっているように思うかも知れないけど、所詮は自分の荷を軽くした分、部下の荷が重くなっているだけの事人間の(心も身体も含め)負荷として考えてみりゃ、どこかに負荷が偏っているだけで、全体としちゃ何も変わっていないというような事もあるだろう会社組織の中だけでなく、自社の効率化をできたとしても、結局のところ、自社の重荷を軽くした分、取引先や関係会社の荷を重くしているだけかも知れない。全体としてみれば、業界全体は何も変わっちゃいない事だってあると思う家族だって同じだと思う自分の荷を軽くすることは、それだけ他の家族の荷を重くすることにしかならない。実際のところ、人の世の中なんてそんなものだと思うだから、どんなときでも図に乗っちゃいけないどんなに「偉い」人間だってよくよく見れば、どこかの誰かに支えられているから今の自分があるって事を忘れちゃいけないと...
人間の生き方

運命、自我、自由意志・・

僕の左手・・何の傷もない健常そのものだ・・・筋肉も付いている確かに僕の左腕だのはずだ・・なのに動かない・・僕の意思を無視するそして 痺れ、痛むこれは本当に僕の腕なのか・・?僕の肩から確かにぶら下がっているこれはサウスポーだったあの僕の自慢の左腕なのか?左足も同じだ・・何の傷もない健常そのものだ・・・なのに動かない・・僕の意思を無視するそして 痺れ、痛む・・これは本当に僕の足なのか?僕にこんな「運命」が待っているとはよもや思わなかった不自由のなるってこういうことだったのか存在するのに僕を無視する健常なのに動かない・痛む・痺れる困ったもんだこんなことになる事が「僕の運命」だったのか?って・・感じているそして運命ってなんだろうって運命っていうことは「最初から決まっていた」っていう事?僕は昔アインシュタインの運命論を支持(信じて)してきたアインシュタインによると・・人間は生まれた瞬間から死ぬまであらゆることが運命付けられているというそれは物理学の法則からの考えだ僕も理系だったし、いわゆる科学者の端っくれだったからアインシュタインの言うことも何となく理解していたつもりだつまり、物理の法則によると...
人間の生き方

一蓮托生かぁ

俺とお前は一蓮托生だ!なんて最高の人間関係であり、尊い「絆」だと思うでも実際のところ俺とお前は一蓮托生だ!なんて言う奴に限ってイザというときには逃げるそれにイザということには力になるよなんてなんて言う奴に限ってイザというときには逃げるなざなら葉隠武士道でも言けど、イザとは「今この瞬間の事」だからであるそれどころかそう言う奴に限って相手には一蓮托生を求めているけれど自分は何もしない最近の世の中、親子でさえ一蓮托生であり続ける親子って少ないと思う実際に僕の身の回りにそういうのが二人もいる一つは取引先の厄介なおっさんいつも俺たちは一蓮托生だみたいなことを言っているくせにキチンと支払いさえしないそれどころか自分の欲のために自分の子を保証人にまでして借金するから始末が悪いそしてイザとなったら逃げる僕は何もひねくれているわけじゃないけれど僕はある意味仕方のないことだと思うなぜなら、人間には自己防衛本能ってヤツがあるから・・最近、僕はなんか人の「心の裏」が透けて見えるような気がするんだそれは何も超能力とかいうようなものじゃなくって障害を負って以降というもの人の言動と行動の「不一致感」にとても敏感にな...
人間の生き方

生きなければならないから、希望を創る

希望って、、やっぱり、どこかに存在するものじゃなくて自ら創るものだと思うどこかに存在するわけではないから探すものでもない何にも無いところから創るもの。僕自身、脳卒中で倒れ、障害者になってから会社も失い、身体機能も失いな~んにも無くなってしまったでも、いまは少なからず希望があるそれは、こんな身体でもう生きていたくないというような状況のなかで生きている限り「生きなければならない」という重荷を背負わされたがゆえに否が応でも生きていかなければならないそして、生きていくためには希望が必要だったのだと思うでも、どこにも希望なんて見えなかったそんなものどこにも無かった、、だから、何にも無いなかで、自分で創るしかなかったのだと思うだから、必死の思いで自分なりの希望を創ってきたと思う。そして今それが自分にとっての希望になっているのかどうかまだわからないけれど、少なくとも自分自身が希望だと思っている限り、僕の希望であり続けるのだろうだから生きようと思えるのだ。iPhoneからの投稿
人間の生き方

医学の発展は人間を幸福にするのだろうか・・

昨年はIPS細胞の成功で山中教授がノーベル賞を取った・・現代医学は日進月歩だ・・昔は治癒できなかった病も少しずつ治療法が発見されつつあるでも、これは人間にとって本当に幸せなことなのだろうか僕が患った脳卒中・・ひと昔前は死因の第1位だったというそれが医学の発展により脳卒中による死亡率は激減したというその代り・・僕のような後遺症を抱える障害者が激増しているというこれって死亡する代わりに苦しみながら生きさせられることを意味するのではないかこれって幸せなんだろうか先日もテレビでやっていたが、最近は妊婦が胎児の出生前診断を血液検査だけでできるようになったらしいそのため胎児に障害やダウン症などの問題があるか否かが簡単にわかるようになった反面、胎児が障害やダウン症だと判明した結果、出産を諦め、堕胎するケースも増えているというこれって、他人が本人の意思を聞かずに命の取捨選択をしてしまっていることになりはしないか当然、取捨選択する親も苦しむことになる昨年はIPS細胞の成功で山中教授がノーベル賞を取った・・身体の皮膚細胞を「初期化」することで、そこからどんな臓器でも再生できるという確かに画期的な医学の進歩...
人間の生き方

死ぬ事は怖くない

僕にとって死ぬ事はもう怖くないなぜなら、死ぬ事よりこの身体で生きている方がはるかに苦しく、辛いと思うからだだから僕にとって死ぬ事は恐怖ではなく、したくても、してはいけない事もちろん死ぬために痛みや苦痛をともなうのはイヤだそれは、ただでさえ生きていて毎日、毎日苦しんでいるのに、もうこれ以上の苦痛は勘弁して欲しいという思いだけから来るものだでも身体的苦痛がければ僕にとって死とはそういうもの(したくてもしてはいけないもの)になっているだから、死に対して精神的恐怖は全くない逆に死んではいけないという考え方の方が苦痛であり、恐怖でもあるつまり、このままいつまで苦しまなければならないのか? という恐怖であるでも、僕には僕の病気が遺伝したある意味、責任をもたなければ、ならない子どもがいる僕がモヤモヤ病でさえなければかかる事のなかった息子、、、この子のためにも僕は今、絶対に死んではいけないそんな思いだけが僕を生かさせているのかもしれない