独り言

生きる使命とは

自分が生きている理由は何だろう。自分が生きる使命とはなんだろう最近よく思う使命感がなければ、こんな不自由な体で、苦しい思いをして、痛みに耐えて生きていられない。きっと何か使命感のようなものをを感じるからこそ頑張って生きているのだろう僕の使命とは・・?誰か(神様のようなもの)から与えられるのだろうか。そんなものが欲しいと思っているでなければ、なぜこんなつらい思いをして生きていかなければならないのだろう僕が生きる意味は何なのだろうかなぜ生きなければならないのだろうか。僕は今、身の程を知らぬ大それた事をしようとしている。何かに突き動かされるように・・なぜだかどうしてもやりたい・・失敗してもよい。やるだけのことをやってみたい心の底から突き上げるような思いがこみ上げてきている。なぜだか分からない。使命とは、使命感とは誰かから与えられるものではないのではないだろうか。自分の心の中に作り上げられるものではないかと感じる。もしも、この思いがそうであるならばそれを使命と考えることにしよう。でなければ、今の人生は辛すぎる。使命があるから、使命感を感じるからこそ試練を乗り越えることができるのだと思う。自分勝...
独り言

心の挑戦と闘志がなくなったら人生は終わりだ。

左半身不随になってできなくなったことは数多くある痺れや痛みでどうしようもない日もたくさんあるだから確かに健常者と同じように活動できないかもしれない。だからといって挑戦をあきらめる必要ないのではないか。人生、死ぬまで挑戦の連続ではないか特に脳は年齢に関係なく臨界期があるという。脳はいつまでも挑戦し続けられるわけではないかつまり心の挑戦をあきらめる必要はない。何かに挑戦しているときこそ生きている実感が湧くものだ。だから障害者になったからといって挑戦は諦めない。障害者でもどこまでできるか挑戦してみようと思う。確かに健常者なら5分で歩けるところを僕は30分かかるかもしれない。だからといって5分で歩こうとすると挑戦することはバカだと思う。無駄な体力を使うだけだ。健常者が5分で歩けるところを30分かかるなら25分前に出発すれば良いじゃないか。体が痺れて痛ければ、その痺れや痛みが通り過ぎるまで待てば良いじゃないか。慌てる必要ない。障害者でもできる工夫さえすれば、いくらでも健常者並みの活動はできるはずだと思う。こういった工夫をして健常者と同レベルの結果を出すことこそが僕の挑戦ではないかと思う。何かに挑...
人間について

なぜ花は美しいのだろう

僕は男だからかもしれないけれど、これまで感謝のしるしとして花を贈ったことがなかった。そして花がそれほどまでに(感動するほど)美しいと感じたことはなかったデザイン的にも人を喜ばせる(あるいは感動させる)ほどの美しさを持っているとは感じていなかったでも障害者になってからというもの最近、不思議なことに花が(感動するほどに)美しいと感じることがある。それは花というものは、その植物が種子から芽を出し、厳しい自然を生き抜いてきた最終的な証として「最期」に咲かせるものだと感じるからだ。小さな花でも美しい。大きな花だから必ずしも美しいのではない。道端に咲くタンポポの方が洋ランなどよりずっと美しく感じるのだ。なぜならタンポポは花を咲かせるまでに何度も踏みつけににされ生き抜いてきた結果最後に咲かせた花だと感じるからだ。花の美しさとは花の大きさでもない、デザインでもない大げさだけれども大きな花を咲かせる事ができなくても、たとえ小さな花でもその花が咲くまでに生き抜いてきた生き方に美しさを感じるのだ。どの花もその植物の一生の最期の証と最近感じるのだ。
人間の生き方

道を開くのは人の心

東日本大震災・・リーマンショック以降続いている100年に一度と言われる不況毎日のように報道される不甲斐無い今の日本の政府今の日本は閉塞感に覆われているという人が多いけれど希望のない世の中になったというけれど本当なのだろうか?と僕は思っているやっぱり僕は希望とは世の中の状態ではなく人の心の状態にすぎないと思う希望も人の心の中にある閉そく感も挫折も人の心の中にある閉塞状態であると思うから閉塞状態になっているだけではないだろうか未来は明るいと思えば明るくなるのではないだろうか全ては人の心の問題ではないかそしていま日本は苦しいと思うのは国民がそう思っているだけではないだろうか国民自身が閉塞状態だと思い込んでいるのではないかだから政治家の人は闇雲に「閉塞」言葉を使ってほしくないと思う政党によっては「閉塞状態を打破し、希望のある社会を作ります」などというスローガンを掲げる政党もあるがこの言葉自体の世の中は閉塞状態だと言っているような気がしてならないそんなことを言うから国民が閉塞状態だと思い込んでしまっているのではないだろうかそもそも世の中に「閉塞状態」なんて存在しないのではないだろうかと思う閉塞状...
人間について

これは天命なのだろうか

僕は運命的論者ではないけれど、最近自分の人生を振り返ってみると何か目に見えない力に突き動かされているような気がするそれは自分ではどうにもならない運命のようなもので、逃れようとしても逃れることができない何か強い力で無理矢理突き動かされている。そんな運命のようなものを僕は今感じている。思い返せば、、もともといわゆる大企業の一介の人前でろくに話しもできない口下手で臆病なサラリーマン技術者だった僕が何の因果か自分で会社を興すなどという全く自分の性格とは合わない大それたことをしてしまった。それゆえ小さな小さな零細企業だったけれども、社長様に苦労に苦労を重ねた。そしてやっと少しは会社らしく、社長らしくなってきた矢先に脳出血で倒れでしまった。そして必死で築き上げてきたものを全て失ってしまった。もうこれで僕の人生は終わってしまったと感じた。それが今、今度は国会議員と直接話をして日本の再生可能エネルギー活用施策を直談判しようとしている。それも大それた提案をしようとしている。我ながら滑稽である今も障害がとてつもなく苦しいにも関わらず僕は今、何かに突き動かされているように必死になっている。本当に苦しい。何も...
人間について

努力して結果が出なくても、

人一倍の努力をすれば成果が上がると言うのが普通であり、本来そうであってほしい。しかし現実は努力をしたからといって、必ずしもそうとは限らない。努力をしても、努力をしても、いくら努力をしても何の成果も上がらない。それで失望して落胆してしまうこともあろう。でも本当はそんなときこそ、心乱さず、じっと耐えて、尽くすべき努力を尽してゆくことが、人間の生き方として大切なことではなかろうかリハビリを始めてもう3年になる。当初は「必ずいつか回復してやる」という意気込みだったけれども、リハビリをやってもやってもなにも変わる気配がない。。そんな状態がもう3年続いている。正直言って僕の心の中は落胆しかかっているだからといって心を乱してしまい、回復を諦めてしまってはいけないのだろう。今こそ僕はじっと耐えて、やるべきリハビリそして尽くすすべき努力を尽してゆくことが必要なのだろう。そうやって努力しつづけることこそ誇るべき生き方なのだろう。そうしていれば、死ぬときに回復していなくても決して人生に後悔はしないだろう。これは私のような障害者が障害を克服するということに限らないと思う。健常者のころ、僕は、人生に成功あるいは...
人間について

心のネガティブスパイラルとポジティブスパイラル

今日は午前中からなぜか何から何まで悪い方向に行くように見える.周囲のいろんな人が僕の邪魔をしているように思えてきたりして、憎悪のような気持ちまで芽生えてきた。なぜこんなネガティブな気持ちになったのかまったくわからない。きっかけは、ほんのちょっとしたことだったような気がする。中国の新幹線事故で事故車両を一旦地中に埋めて、掘り起こしているという。ニュースを見て、ちょっとムッとした。日本の技術を平気で盗むように利用しておいて、今はその新幹線技術を中国の技術として世界に売り込んでいる。技術を盗んめても管理能力はゼロだから運用できないんだ。思った通りだという気持ちの反面、腹が立ってきた。そんなことがきっかけで、あらゆるものに腹が立ってきた。人間の心とは不思議なものだ。午前中はどうにもこうにも気持ちがポジティブにならなくて困った。わけもなく「人を憎んでいる自分」が嫌になってきたり、麻痺ている左半身を見ていると無性に悲しくなってしまったり、うつ病なんだろうか、、と思えるほどだった。ところが、午後一番にある国会議員と面談できることになったことが分かった。その瞬間、なにもかもが旨くうまく行くような気がし...
人間について

苦境を乗り切る精神力とは

苦境を乗り切る精神力とは何であろう僕はそれは自我を捨て去ることのできる能力ではないだろうかと思う。なぜなら苦境時に人の心を襲う苦しみ、悲しみ、怒り、憎しみ怖れなどの気持ちは自我があるから心の中に湧いてくるものだと思うのです。自我があるから、自らの喪失感に苦しみ悶える自我があるから、プライドを傷つけられ憎しみや怒りが生まれる自我があるから、自分を守ろうとし、自己防衛行動として攻撃的になり、結果として人を傷つけてしまうことになるのではないだろうか僕が脳出血にで障害者になったことによって最も苦しんだ理由も僕の心の中に強烈な「自我」が存在したせいではないかと思っている。これまで築き上げてきたもの(自分の身体・体力も含め自、分の会社や自分のプライド)を全て失ったのだ。その喪失感に僕の中の自我が苦しんだ。苦しんだ恐ろしく苦しんだ。この3年間、何度も自死を考えた。自我が存在するということは「自己のあらゆる欲求」が存在するということだと思う。高い欲求は時に行動を起こすための大きなパワーとなるけれど、一度その欲求を満たすことが不可能だということに気付いてしまうと、逆に強烈に生きる意欲を無くしてしまうもの...
独り言

僕にとって希望や志をあきらめないという事

なでしこジャパンは諦めないという気持ちで闘ったという。苦しい中で諦めない心を持ち続けることはとてつもなく難しく、辛いものだと思う。僕の場合、半身不随の回復を諦めないということだろう。医学的には何歳になっても脳には可塑性(脳卒中によって死滅した脳細胞に代わって生き残った別の機能の脳細胞が代償機能として働き、破壊された脳機能が再構築されること)があるなどと言うけれど、それがどうすれば発揮されるのかどれくらいかかるのかは医学的にはまだ全く分かっていない。 5年かかるのか?10年かかるのか?20年かかるのか?それとも50年かかるのか?こんな状態で希望や志を持ち続けることは正直言って難しい。リハビリを始めてからもう3年近くになるが大きな回復の兆しは全くない。心の弱い僕はどうしてももう無理かな、、という気持ちになってしまうそれでも希望を捨ててはいけない。そして決して諦めてはいけない。毎日一分一秒、いや麻痺側の足で一歩進む度にそう自分に言い聞かせている。たとえ届くか届かないか分からないほど高い目標であっても、諦めてはいけない。諦めたら、その時点で決して届くことのない目標になってしまうからだ。そして希...
独り言

それでも希望を捨てず、それでも生きなければならない

人並に歩くこともできず、ただの一歩が苦しくて、精魂込めた一歩だが、幼な子に抜かれゆくそんな自分が悔しくて歩くことさえ嫌になる。痺れる身体を堪えつつ毎日が生きることさえ苦しいけれど、それでも父としての自尊心大黒柱としての自尊心そんな自尊心は捨て去ることは難しく、それにも増して、世の役に立つ人間でありたいとどんなに苦しくても自らの心の中にだけ希望を捨てず、人からみれば大それた夢想家のような志を心に縛りつけ実現を目指して毎日を生きている。まるでドン・キホーテのようだと思いながらも、非現実的な志を捨て去ることはできないでいる。人からみれば非現実的な志でも僕にとっては大切な志。そんな志は・・苦境の世の中の状態や苦しい身体の状態に関係なく僕の心の中になら持てるものそれが僕の志であり、希望なのだ。そしてそれこそが僕の生きる意味であり、生きる力になるのだ。だからこそ、こんな身体で惨めな思いばかりの毎日だけど、それでも希望を捨てず生きなければならないと思う。父である限り、大黒柱である限り、そして男である限り、、