人間について

心のきしみ

心が軋む音が聞こえる・・左半身が痛む度に・・不自由で悔しい思いをする度に・・これができるならこれもできるだろう・・という常識が(他人も自分も含めて)通用しないことに愕然とする度に・・戸惑う度に・・心が軋み壊れそうになるのがわかるその軋みに「負けてたまるか」という接着剤で補修する・・補修してもすぐにまた、様々な思わぬ立ち塞がる壁に戸惑い、憂いまた心の軋む音が聞こえ始める・・そんなことを毎日繰り返してもう4年いつかはこんな風になってしまう気がしていたかもしれないだって人間だから・・人間ならいつかは老い、病に倒れ、床に臥せ死を迎えるそれが少し早かっただけ・・ただそれだけのこと・・だとしたら、いつこの命が消えるのか、もう二度と身体は元に戻らないのかそんなことに憂うともなく、不安を感じることもなくたとえ障害を抱えていようともただ、ただ、生きている今この瞬間を心を落ち着け、歩みたいそうすれば、そうできれば心の軋みもなくなろうに・・
人間の生き方

心穏やかに生きたい

脳出血によって半身不随になってからというもの、、もう4年になるこの4年間、ほんの一瞬たりとも、左半身の痺れと痛みがなくなったことはないそして左半身は常時鉛のように重くつらいこれもこの4年の間一瞬たりとも、(健常者の頃のように軽くなったことはないそれはまるで鉛のついた足枷をはめられ一生を過ごした奴隷のようだと感じるだから常時気持ちを緩めることはできない常時気持ちは「負けるもんか」「ここで折れてはいけない」と張り詰め、痛みや痺れや身体の重さと闘い続けてきたいつになるのだろう気持ちの張りを緩め心穏やかに過ごせるようになるのは、、こんな状態で生きていると自分はいったい何のために生きているのだろうと思わざる得ないこんな僕が生きるために必要だと感じない事、それは、何回か記事に書いているように自分が人の役に立っていると感じられる事、、それは、自己満足に過ぎないかも知れないそれでも、そう感じる事ができる事が唯一、僕が頑張って生きようと思う事ができる瞬間だから、たとえ障害者でもたとえ自己満足あろうと人の役に立つ事を目指したい「ありがとう」この言葉を言ってもらえる事こそが経済的成功なんかより何百倍も嬉しい...
人間について

負けてたまるか

負けない不自由の歯がゆさに負けない悔しさに負けない悲しさに負けない痛みの苦しさに負けない将来の不安に負けない将来が不安になるのは自分の心が自ら見ようとしていないだけ自分で自分を縛っているだけ自らの思い込みや執着が心の目を閉ざしているだけたとえ障害者でも道は無限にある可能性を自ら捨てるような心の持ち方はやめようそして、、負けない負けてたまるかこの言葉だけが僕の心を支えるどんなに苦しくても負けない、ギブアップしないそんな自分を信じよう自分を信じることで知恵も沸く負けたくない気持ちは心のエネルギーどんなに不安でも負けてたまるかという気持ちだけは捨てないでおこうきっと道はある
独り言

今の僕の漠然とした不安・・

僕は最近、知り合いの紹介や助けもあってある会社で仕事をさせてもらっている脳卒中で倒れてから「初めて」本格的な「実務」だ実際、実務をやり始めると、いろいろトラブル事も起こりはじめている当初は仕事だから多少のトラブルや行き違いがあって当然日々発生するトラブルやお客様やクライアントからのクレームを解決することこそが仕事でありそれができてこそ仕事も事業も発展するのだだから仕事上のトラブルやクレームは恐れてはいけないと思っていたが、ここにきてトラブルやクレームが発生するとやっぱり自分はまだおかしいのではないかという不安に駆られる事ある・・実は脳が損傷しているせいでまだ何か会話などの認識力におかしいところがあって、「周りは気付いているが実は自分だけは気付いていない」そんなおかしな行動や反応を自分はしているのではないかと不安に思うことがあるのだ実際、脳卒中になった人に出る(特に右脳損傷で左麻痺の人に多いらしい)高次脳機能障害という「本人は気が付かないがその症状は多岐にわたり、記憶障害、注意障害、遂行機能障害、社会的行動障害などの認知障害等で脳の損傷部位によって特徴が出る障害」が自分にもあり、第三者か...
独り言

夢無き今、志に生きる

半身不随という障害を持ってしまった今の僕には昔(健常者の頃)に持っていたような夢はもうない健常者の頃は人並みに(零細だったけど)会社を経営していた事もあってか、経済的成功は確かに僕の夢であったでも、今そんな夢は僕にとって何の意味もないし、何の魅力も感じないただ、その代わり、今の僕は生きるために「志」というものを持つことができていると思っている障害者になってからこの4年の間・・僕は自分が生きる意味を、自分が生きるための生き甲斐をひたすら探し続けてきたような気がするそして幸いにも自分なりに「志」というもの見つける事ができたと今、思っているこの事は僕にとってとてもラッキーだったと思う。周囲の仲間も助けてくれた仲間には感謝しているだから、せっかく持つことのできたこの志は大切にしたいと思う。そして僕は夢なき今、志に生きていると感じる志と夢の違いそれは、僕なりにこう考えている 志は自分のためではない人のためである(つまり人の役に立つこと)でも、夢は基本的に自分のためであると思うそして夢は達成することに意義があるでも志は違うと思う志とは目指すことに意義があると僕は思うそして、、志を目指して生きていく...
人間について

失ってわかる 人間の身体機能の凄さ

最近になってつくづく思う人間の身体機能の凄さに驚嘆するのだ・・こうやって自分の身体機能を失うと(当たり前のように思っていた)身体機能が如何にスゴイ機能だったのか痛感する例えば・・駅などで階段を駆け上がる人を見てもスゴイ!と思うだって足元の階段の段差も確かめずに、足が見事に段差の高さに合わせて動いているのである!今の僕には不可能だ・感覚麻痺の酷い僕はいちいち目で足が段差の上に着地したかどうか確かめながらでないと階段は登れないのだ・・あと踵の高いハイヒールを履いて歩く女性・・あの細い踵で、な、なんと!バランスを取って見事に二足歩行しているのだ!スリッパでさえ、すぐにバランスを崩してしまう今の僕には絶対に不可能だ・・これは良く考えると驚くべきことだと思うこうやって失ってみると人間の身体機能が如何に芸術的な動きをするのかあらためて発見できると同時に、こんな素晴らしい芸術的で大切な身体機能を失ってしまったことにあらためて落胆もしてしまう最近である。。
独り言

行楽か、、

もうすぐ、ゴールデンウイーク世間では、国内、海外を問わず行楽ジーンズだ。でも、今の僕にはあまり関係ない元気な頃は、このシーズンになるとスキューバダイビングの計画をしていたものだ。沖縄、パラオ、モルジブ、オーストラリア、、ワクワクしてプランを考えていたものだ。それも今はもうできるような身体ではない行楽、、巷では京都神社仏閣巡りの旅!北海道リフレッシュプラン!等々の広告が飛び交う今の僕にとっては行楽なんて苦痛以外の何ものでもない、、「行く」とは、「移動」を伴うどこかで歩行しなければならない歩行は苦痛だできる事なら歩行はしたくない僕が歩行するのは、やらなければならない義務ややるべきであるという使命感のようなものがあるときしかしない。できる限り歩行は避けるなぜなら、歩行は痺れと痛みの憎悪の原因となる上、左脚がうまく動かず、感覚がないので、転倒しないようにひどく神経を尖がらせなければならず、疲れるから、、だから今の僕には行楽なんてもう無縁だなゴールデンウイークにも何も心ときめく事は感じない。変わったな、、こんな事から脳出血によって失ったモノの大きさをあらためて痛感するのだまさかこの歳でこんな生き...
人間について

諸行無常か・・

諸行無常・・この世のあらゆるモノ(物質や状況)は一瞬たりとて同じ状態ではなく、移り変わっているだから、そんないつかは存在しなくなるもの(財産や名誉とか永遠の健康等々)に執着するから、それを失ったとき苦しむのだと仏教では教えているでも・・なら聞きたい僕のこの半身不随という後遺症の障害も「諸行無常」であるならいつかは消えうせるのか?この苦しみもいつかは消えうせるのか?だとしたら、それはいつなのだろうか死んだとき?たしかに死ねば、半身不随という後遺症の障害の苦しみも消えるだろうでもあと何年生きるかわからないあと何年生きさせられるかわからないそんな僕にとって死まで待つことは永遠に等しい時間だそれは正直辛い・・と思うのだが・・こう思う僕は弱いのだろうか・・
人間について

初体験(未体験ゾーン)

人間、、生まれてすぐの赤ちゃんの頃から幼児くらいまではやること成すことほとんど全てが未体験であり、初体験である初体験(未経験)だから、うまくいかず、失敗する失敗してはじめて、その方法ではうまくいかないとを分かり、「できる方法」を模索しながら、徐々にできるようになっていくこれが普通の人間の成長過程だろう。でも、この歳になってこれほど多くの初体験(未体験ゾーン)が多いのも困ったものだ・・何が未経験かって?実は生きてきたこの50年間で全くの未経験ではないこういう「左半身麻痺の身体で経験する」ことが初めてのことが多いのだ。例えば健常者の頃に右手片手(と思っていただけ)でできていたこと・・そんな右手片手出来てたことだから、左半身麻痺した今でもできると思いやってみたら、意外や意外・・できないことがたくさんあるのだ・・そして愕然とする・・こんな事もできなくなっていたのか・・ともう左半身麻痺になって4年半近く経過するけれど、未だに「左半身麻痺の身体で経験するのは初めて」の事が多いことに気付かされるつい最近だと・・例えば、POST ITのようなメモ付箋に字を書こうとしたら、(字を書くのは右手だから)でき...
人間について

僕の生きる理由・・

僕は今何を支え生きているのだろうふと、そんなことを考えていた・・半身不随という障害者になってしまった今の僕には以前持っていた「生きる楽しみ」・・(いわゆる娯楽というやつ)の99%は失ってしまったちょっとした観光や旅行。近所の散策でもよいそんな小さな楽しみさえも今の僕には苦痛でしかない。何事にも「楽しむ」なんていうことは不可能に近いそもそも僕にとっては歩行移動だけで半身が猛烈に痺れ激痛が走り、激しく辛いのだから・・散策ですら「楽しみ」なんてものではない。もちろん、身体を動かす楽しみ(いわゆるスポーツ)は100%できなくなったそんな「生きる楽しみ」をほとんど奪われている今、僕は今何を支え生きているのだろう考えた末に出来てきた一つの結論・・それは「使命感」のようなモノであるそれは簡単に言うと「自分が必要とされているかどうか」である必要とされているからそこへ行く(身体が痛くても移動する)し必要とされているから全身が痺れて(痺れが酷い時には健常な半身側まで痺れが回る)横になっていたいけど、打ち合わせにも出席する誰かに必要とされているから心に鞭を打って無理もするそして決して弱音は吐かない重要なのは