人の業(ごう)


僕も含めて、生きているということ自体
誰かに、或いは、何かの生き物の犠牲の上に生きている

例えば、あるビジネスで成功して、

 

たくさん稼ぐことができたのなら

 

その影にはかならず負け組がいる

そうした負け組の上に

 

成功者は生きているに過ぎない。

僕がこんな半身不随という障害者でも

ある程度、生きていられるのは

この日本という国が先進国であり、

その事による様々な最先端の医療技術力や

先進国としての福祉政策の恩恵に

あやかることができているからだと思っている

でも、その影には未だにインフラも1

まともに整っていない日本などの先進国に

(様々な意味で搾取されている)発展途上国の犠牲の上に成り立っている

日本に偶然にも生まれた事でこんな障害者でも生きていられるのではないのか。

 

このようなことは僕のような障害者だけではなく

 

普通に生きている。健常者でも同じことだ。

 

この平和ボケするような日本の中で、

 

毎日くだらないバラエティー番組を見ていられるのも

 

前述のような発展途上国の犠牲の上にあぐらをかいているに過ぎない

 

ということを重く感じなければいけないのではないだろうか

すべての人間はそのような誰か、

 

あるいは何かの生命の犠牲の上にしか

生きることができないのではないか

これを仏教では、業(ごう)というらしい

 

人間はどんなに素晴らしいと言われる人であっても、

 

何らかの業(ごう)を背負っているのではないか

だとしたら、自分がどんなに成功したとしても、

 

このような業(ごう)を背負っていることを

 

人間は生きている限り、絶対に忘れてはいけないのではないだろうか

ただ、生きているだけでも、

 

何かの生命を食らって生きてしか生きていけないのが

 

悲しいかな、人間だ。

 

障害者という、いわゆるマイノリティーな立場に

 

いつの間にか、ある日突然なってしまった僕はそんなことを思うのだ。

投稿者プロフィール

代表
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。
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