「早く障害に慣れなきゃね!」
と僕に言った。
友人は、励ましのつもりで言ってくれたのであろう
でも咄嗟に僕は思った・・
やっぱりそう思ってるんだ・・と
「そう」とは、
障害は、月日が経てば「慣れる」事ができるものだ・・と
以前も記事に書いたけど、僕が健常者の頃、思っていた事と同んなじだ。。
でも障害に「慣れる」なんて事は絶対にありえない。
何年経とうが何十年経とうが・・
絶対に慣れるなんてことはない
僕の知り合いの右麻痺20年の人も
未だに苦しんでいる。20年経っても
障害になんて「慣れる」ことはないのだ
なぜなら・・
麻痺した左半身の(動いていた)イメージが(いつまでも)残っているからだ
これは「こだわり」というものとも全然違う。
僕の脳には健常な頃の「身体イメージが」厳然と残ってるのだ・・
これは取り払うことはたぶん無理だろう
そのイメージ通り、動けない限り、
慣れたり、受け入れたりできるものではない。
これは健常者の方に言っても理解不能だろうと思うけれど・・
こんなのが例えになるのかどうかわからないけれど、
」
たとえば幼い頃から皆、注射は何回もしているだろう
でもいつまでたっても注射の痛みに「慣れる」ことなんてない
何年経っても僕の左半身は僕のイメージに残っている
そのイメージ通り動けない限り・・
永遠にとまで言わなくても、少なくとも死ぬまで「不自由」を感じ続けるのだ。
また、「慣れる」という事は
身体が健常だからできることではないだろうか
環境適応とでも言うのだろうか
その環境適応ができなくなったのが僕の左半身ではるならば、
慣れる「環境適応」事は障害が元に戻らない限り、
いつまでもできないはずだ
ま、いっか・・
いくらこんな事を話したって永遠に分かってもらえるものではない事は
自分が一番よくわかっているはずなのだから
たとえ、
「慣れること」ができなくても、
「受け入れる」ことができなくても
辛い。悔しい事があっても、嘆かず、悲観せず
それを「受け止める」ことはでき始めているようだから・・
あえて言うなら
「慣れる」事はできていなくても
「日々出会う悔しさ」や
「日々感じる不自由さ」や
「いつも続く痛みや痺れ」に
少しは「耐える」ことはできるようになっているかもしれない
でも
「耐える」ことはできるようになっている事と
「慣れる」ということは、全く別次元の事だ。
投稿者プロフィール

- 代表
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京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。