少ないのではないだろうか.
僕も脳出血になる以前の健常者の頃は答えることができなかったと思う。
危機感のダライ・ラマでさえ、あるときインタビュアーに
「人間が生きる意味はなんですか」と問いかけられたとき
「それは私にもわからない。しかし全ての人間は幸福を追求する権利がある」
という答えだったらしい。
あの世界的最高位の修行僧でさえ明確な答えはできなかったのだ。
にも関わらず・・
僕は今、なぜか明確に断言できる。
少なくとも僕自身にとっての生きる意味が何かについては・・答えることができる
僕の生きる意味は何度かこのブログの記事にも書いているけれど、
「人とのつながりのために生きるのだ」と言い切ることができる。
人とのつながり・・
絆といわれるものかもしれない。
どんなにお金があっても、どんなに何不自由のない裕福な生活をしていても
人とのつながりがない人生なんて生きている意味がないと思うから。。。
逆にどんなに貧しくとも沢山の人とのつながりのある人生は幸福ではないかと思う。
僕は障害者になったことになって何度も何度も心の挫折感を味わった。
動けない体で誰にも会うことができないという孤独を味わった。
そんなとき僕の心を支えてくれたのは「人とのつながり」以外の何物でもない。
これは断言できる。
人間は人だけでなく、全ての生きとし生けるものとも「つながり」も持つために
生まれてきたと言っても過言ではないと僕は思っている。
今でも気持ちを落ち込んだときや心のリセットがきかない効かないとき
僕はとにかく人に会うようにしている。
そしていろんなことを語り合うのだ。
そうすると不思議なことに僕の体(心)の中に「生きる力」のようなものが芽生えてくるような気がする。
そしていつの間にかリセットできていなかった心がリセットできていたりする。
だから僕は思います。
この世の中に存在する全ての物との「つながり」をもつために生まれきたのではないかと・・
逆に人間にとってつながりを絶ち切られることほど辛いものは無いのではないだろうか。
その意味で東日本大震災でたくさん人との「つながり」を断ち切られた被災者の気持ちを思うと
やるせない気持ちになってしまう。
あらゆるモノとの「つながりを持つこと」こそが人間にとっての生きる意味だと思っている。
だから新たな人とのつながりができたときにはこの上ない喜びを感じる。
あのダライ・ラマがそのことを言わなかったのは、ダライラマはたとえ離れていても
チベットにたくさんのつながりを持つことができているからではないかと思う。
沢山のつながりを持つことができているからこそ「つながりの不足」を感じない
のではないだろうか。
どんなに弾圧されても、常に故郷チベットの人々との「強いつながり」を感じてるからこそ
負けないで強く生きていけるのではないだろうか。
投稿者プロフィール
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京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。