善かれと思って


善かれと思って取りはからってことや、話したことが思わぬ反発を招いてたり、本物反対の結果を招いてすることがしばしばあります。
思いが足りないのか、はからいが足りないのか、そこにはいろいろな原因はあるだろうけど、
「策」に溺れてしまった感を感じるのである。
善意の策も悪意の策も所詮は「策」にすぎない。「策士策に溺れる」という言葉があるように

悪意の策はもちろんいけないけれど、善意の策もしょせんは「策」である。
本当は「策なし」というものが良いのだろうけれど、これがまた難しい。
「策」におぼれず、自然体で向き合い対応することが大切なのだろう。
しかしそれには、「悟り」のようなものを体得するために心の修練が必要なのだろう。

しかしそれにしても、ネットやメールでのコミュニケーションの難しさを痛感する昨今です。
それこそ善かれと思って書いたことが思わぬ誤解を生じさせ、反発を招く。
「なんでこんな風に捉えられてしまったんだろう」、自分の言葉の使い方に自信をなくしてしまう
ことがよくある。どんなに慎重に言葉を選んでも、誤解されるときは誤解されてしまう。

今のところネットやメールでのコミュニケーションは文字情報のみに頼るしかない。
文字だけでは、コミュニケーション時の相手の表情や、声のトーンなどが読み取れない。
リアルなコミュニケーションがあれば、自分の放った言葉で、相手の表情がちょっと変わったことを読み取って「マズイ!誤解されている!」と感じれば、その場で言い直すことができる。
しかしネットやメールではそれができない。
その意味でネットやメールでのコミュニケーションも文字だけという「策」に頼らざる得ない面があると思う。
よくSNSやブログ「炎上」が起こるのはこのせいだろう。

見えるリアルなコミュニケーションでも人と人とのコミュニケーションではすれ違いばかりである。
それでも僕にとってコミュニケーションは生きるための最も大切なことである。
コミュニケーションで誤解し、怒り、言い返し、言い合い、を繰り返し、それを続けることによって
お互い分かり合えるのだろう。
だからコミュニケーションを避けることはよくないことだと思う。
またネットだけでのコミュニケーションの限界があるのであまり良いことではないと思う。

そんな意味で、自分の足で走り回って、どんどんリアルなコミュニケーションをとることができなくなった今の自分がとても歯がゆく感じる今日この頃です。

残念ながら今の自分にとってはネットやメールが、最もスピーディーなコミュニケーションツールになってしまっている。
たまに外出して、電車などに乗ると、背広を着て汗水たらして、電車に飛び乗ってすぐにノートパソコンを取り出しメールを打ったり、周りに声が漏れないように口に手を当て携帯電話で取引先と思われる相手に懸命にしゃべってるビジネスマンを見ると、昔の自分を思い出し、羨ましく思ってしまう。そして辛くなる。
まだまだ障害を乗り切れてない自分がそこにいる。

投稿者プロフィール

代表
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。
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