人間について

ニュートラルな心と身体

片麻痺という障害は身体をニュートラルにする事がとても難しい、、「麻痺」という語彙から健常者の方は「身体に力が入らない」というようなイメージを持つ人は多いと思うけど、むしろ、全く逆だ、よく、片麻痺の人で、腕がくの字にまがっている人を、みかけた事があると思うけど、これは脳が損傷した結果、脊髄反射が優位に強く出てしまい、身体をニュートラルな状態にできないのだ。これって人間の心も同じではないかと思う。障害者、健常者に限らず、人は心をニュートラルな状態に保つ事は実に難しいと思う。ありのままを自然体で受け止め、自然体で認識できる人は少ないのではないか常に己の狭い経験と知識による偏った自分勝手なこだわりとか自分勝手な思い入れとか偏見とかもしくは人によっては理自らの大なり小なりのトラウマの上で物事を偏って認識してしまいがちだと思う。僕は片麻痺だから身体をニュートラルにする事はとても難しいだったら、せめて心はニュートラルな状態を保つ事を心掛けたいものだと思う
人間について

命とは

人間にとって命(生きる事)ほど大事なものはないが、その命(生きる事)は世の中全体との繋がりと切りはなす事はできない、世間の道徳や秩序を踏みにじって我欲を通す事は、自らの命を打ち砕くようなものだつまり生きる事を止めた事と同じだと思う
人間について

自己犠牲はなぜ人間の美学なのか

今年に入ってから三島由紀夫の小説に影響されてか「自己犠牲」について考えている自己犠牲がなぜ人間の(男の)美学なのか・・・よくイザというときに逃げ出す人間は本当のパートナー(友)ではないお互いに本当に苦しいときに助け合える人が本当のパートナー(友)だなんて言うけれど、じっさい、人は本当に苦しくなったとき、或いは苦境に立ったとき、本能的に「自己防衛」の行動に走るものだと思う。生身の人間である以上、それはいたしかたないことだと思うある意味本能的な「欲」でもあるのだろう欲にもいろいろあるが、金銭欲、名誉欲などというものはどちらかというと本来、理性で抑えるべき「欲」だけどもここで言う「欲」は基本的な生存の欲求というようなものだと思う。つまり自らが生き残るための根本的な自己防衛欲求だでもその自己防衛「本能」さえも押し殺し、パートナー(友)のために自分を棄て、自分が盾となり、パートナー(友)を守るからこそ、そこに本能に勝つ人としての崇高な理性だと感じるのではないだろうか。「自己犠牲」とは、そんなものではなしだろうかだから自己犠牲の覚悟を持てる人間は美しいと感じる。のではないか人は調子のいいときは自分...
人間について

伝える・・

人に物事を伝える・・簡単なようだけど、難しいものだ人に伝えた(或いは「言った」)=伝わったではないから・・自分意図が人に伝わったということは伝えた相手が自分の意図と合致した「行動」をしてくれてはじめて「伝わった」ことになるそこで初めて「伝えた」事が完了になるそれまでは「伝えた」事にはならない。それは自分の障害の不自由さを伝えるこということの難しさで痛切に感じているよく「言った、言わない」のトラブルがあるけど言った=伝わったでない限り、言った通りに行動を相手がしないのは言った側の責任だ。つまり「言った」だけであり、「伝えて」いないのだ。伝えるためには伝える 相手の状況や認識や経験度合いを十分に配慮して何を言えば伝わるのか考えなければならない。そんな意味で自分の障害の不自由さを障害のない健常者に伝えるのは実に難しいそれは「同情」なんかしてほしいのではな。「理解」してほしいと思うからだ。いつも思うののだが、よくバリアフリーの施設などで、例えばエスカレーターがあるけど登りのエスカレータと下りのエスカレーターがあるけど、一本しかエスカレータのないとき登り運転だけにしてしまってあるのを見るこれは足...
人間の生き方

できなくなった事にあえて目を向けよう

片麻痺の障害者になってからというものいろんな人からえ心前向きになるためには「できなくなった事に目を向けずにできる事に目を向けた方が良い」というような助言をされてきたけれど、僕は今年、できなくなった事にあえて目を向けようと思うなぜなら、できなくなった事に目を向けずにいるといつまでもできないままだから・・あえてできなくなった事に目を向けることでこの身体でできるようにするためにはどうすれば良いかを考えたいと思うそれがあらたな知恵に繋がるのではないかできないからといって諦めてしまうと本当に一生できないままになるできるようにするためにはどうすれば良いかを考える事が知恵ではないか人間であるのだから、できない事にも知恵と工夫で乗り越えたい。皆が無理だと言っても自分だけは諦めず、できるように知恵を絞りたい自分があきらめたら、本当にそこで終わりだから・・さて、何から挑戦するかな・・
人間について

障害は本人や家族の責任で生じるものではない。

「障害は本人や家族の責任で生じるものではない」・・・あたり前の事じゃないか・・なにげなく「障害のある当事者からのメッセージ(知ってほしいこと)」の集計結果」というWEBページを見つけたその共通事項の、なんと8位にあった言葉だ。。8位ということは、そういう事を言う(もしくはなんらかの方法で障害者に伝わる・伝える)人がいるということだ。悲しい事だ・・僕も同じ経験をしたっから・・ないかこんな言葉が8位に来ていること自体それだけ無理解な人が多いという事ではないかやるせない・・悲しいと同時に怒りが込み上げてくる・・こんな記事を書いている事自体情けない・・
独り言

親として気になること・・

去年、僕が脳出血を起こした起因の一つであるもやもや病になる可能性のある遺伝子が以下のように次々と発見されている。---------------------------------------------------------------------<東北大学の発見記事>東北大学大学院医学系研究科小児病態学分野の呉繁夫准教授らのグループは、発症に関わる遺伝子RNF213 を見出し、日本人患者の約70%は同じ遺伝子変異を持つことを明らかにしました。この遺伝子変異によりモヤモヤ病の発症リスクが約190 倍に上昇するため、遺伝子検査による発症リスクの予測が可能となります。今後、この遺伝子機能を調べることで脳卒中の新しい治療に結び付く可能性があります。<京都大学病院の発見記事>RNF213の4810 番目のアルギニンがリジンに代わる多型(p.R4810K)が、もやもや病の発症に深く関わる。もやもや病患者のうち日本人では161 名中145 名(90%)韓国人では38名中30 名(79%)、中国人では52名中12 名(23%)でp.R4810K が見られた。p.R4810Kにより、日本人では約34...
独り言

心あらたに・・

新年の正月とは不思議なものだ何も環境が変わるわけではないけれどそして心あらたに頑張ってみようと思える僕は元旦が誕生日だから1歳老いてしまったのだけれども身体は1歳老いたのかもしれないけれど、、心はあらたにできる心があらたにできるということは心を若返らせることではないだろうか心あらたにできる限り、日々頑張ろうと思う。そしてあきらめない
独り言

110歳まで生きる!

今日でとうとう、この僕が、、な、なんと50歳!気持ちはまだ30歳代なんだけどなぁ^_^;脳出血で倒れた45歳が人生の折り返し地点だと思っていたけれど、やっぱり取り消し!今日を折り返し地点にして、100歳まで生きる事にしよう!この身体でそこまで生き切れるかどうか不安はあるけどね。前に聞いた事がある自分が生きたい年齢+10歳くらいを目標にする気持ちを保つと脳の寿命プログラムにはちょうど良いそうな、、だった気持ちの上での生きる目標は110歳だ!iPhoneからの投稿
人間の生き方

男の生き方、、そして人間の生き方

---------------------------------------------------決して刃向かったり、対抗したりしてはいけない。それはかれらの思う壺にはまることだ、火を放たれたら手で揉み消そう、石を投げられたらからだで受けよう、斬られたら傷の手当てをするだけ、どんな場合にもかれらの挑戦に応じてはならない、ある限りの力で耐え忍び、耐えぬくのだ、、--------------------------------------------今の時代にはそぐわないかも知れないけれど、、良い言葉だと思う山本周五郎の小説の一節だ。そして今の僕の心に染みるこの言葉の相手は自分の障害であり、僕を見る周囲の人々、そして僕を見る自分自身だと感じるiPhoneからの投稿