人間の生き方

死ぬまで苦しみとの闘いの旅と生きる意味探しの旅である

僕はこれからもいや、死ぬまで障害の不自由と痛みや痺れと、そして障害を負ったことによって受けた屈辱と感じた絶望との闘いであり、その闘いに勝つために、一生、生きる意味を探し求める旅なのだろうと思う。なぜ、自分の人生はこんな風になったのかそして今なぜ、こんな身体で働き続け苦しみながら、ありとあらゆる屈辱に耐えながら生きていかなければならぬのかその答えを探し続けるだろうその答えが見つけられそうなところ(人の元)へはそこがどんなに過酷なところであろうと躊躇なく教えを乞いに行くであろうなぜなら、本当の意味での心の安寧を得たいからだ「耐える」ということで心が安寧している「フリ」をしているのはいつか限界が来ると思うから・・・
人間について

僕でも降りることができる階段・・

僕は手摺り無しでは階段は降りることはできない。左足が麻痺してからというもの、、階段を降りる時、特に右足を降ろしたとき残っている左足で身体のバランスがどうしても取れないのだ健常者の人や普通の人は、お年寄りや障害者は階段は降りるよりも登る方が大変だろうと思っている人が多いのではないか実際、、駅なんかではエスカレーターなどは人が多いときや夜遅くなると下りを止めて登りだけを動かしている事が多々あるこれが困る・・下りの方が大変だということを理解されていない証拠だと感じる人間は降りる方がバランスのと取り方が難しいのだ実際高い山の登山での遭難はとんど下山時だ。ところが・・僕でも手擦りなしで降りることができる階段を今日見つけた!なんと高野山でだ金剛峰寺の階段だ・・以下の写真のような階段だった段差は15cmほどであり通常の階段と変わらないでも一段の石の幅が約1.5mもあるだから一段上ると数歩歩いて、また一段上がるという(せっかちな現代人には)まどろっこしい階段だろうこんな階段をデパートやビルに作ろうものなら、スペースのムダ、時間のムダ・・等々とあちこちからクレームが来そうだでもこの階段なら僕でも降りるこ...
人間の生き方

生きさせられているからこそ、生きなければならない

今日高野山に授戒に行ってきた・・半身麻痺という辛い状況の中、何か少しでも辛さを乗り越えられるヒントになるものがあれば良いと思って・・この授戒中は幾つかのお灯明が点いている他は窓も扉も全部閉められ、真っ暗な中で儀式が行われる。最後の扉が閉じて暗くなり、ぼんやりと灯明の光が見える中で、少々緊張しながら椅子に座って待つ(本来なら正座して待つのだが僕は左脚がある程度以上曲がらないので椅子に座らせてもらった)待つこと事数分。目が暗さに慣れた頃、阿闍梨様がお入りになられまして、授戒堂の壇上にお座りになられました。そして静かに真言を唱えられる。そして講話・・通常なら複数の授戒を受ける人ががくるのであろう授戒堂はおよそ畳50畳以上はあると思われる広い部屋だったところが今日みたいな平日に誰も来れるわけでもないく僕ひとりだったなんと畳50畳以上はあると思われる広い真っ暗な部屋に僕ひとりポツンと真ん中に座りなんと阿闍梨様と1対1での授戒である・・授戒中はその部屋への出入りは一切禁止お手洗いさえ行かせてもらえない。。どんな講話が聴けるのか少々楽しみにしていたけど残念ながら僕には講話自体少々退屈であった不殺生不...
人間について

成し難いことを成す

ある本で仏教で言われている人間にとっての「13の成し難いこと」というのを見つけた・・以下である・・1.貧しくて施すことは成し難い2.慢心にして道を学ぶことは成し難い3.命を捨てて、道を求めることは成し難い4.よいモノを見て求めないことは成し難い5.権勢を持ちながら、勢いを持って人に臨まないことは成し難い6.辱めれて、怒らないのは成し難い7.事が起きても無心でいられるのは成し難い8.広く学び深く極めるのは成し難い9.初心の人を軽んじないことは成し難い10.外界の環境に動かされないのは成し難い11.相手の能力を知って、教えを説くことは成し難い12.心をいつも平らかに保つことは成し難い13.是非をあげつらわないことは成し難いうーん・・確かに考えてみると難しい・・そして成し難いと思うところで、この身体で人の役に立つ事は成し難いことでだと自認しているがそうなりたいと思うのはおこがましい慢心なのだろうか・・
人間の生き方

主観を捨てる

徹底的に主観を捨てるように心掛けよう主観こそ、無意味な「こだわり」や「執着」の原因であり、この「こだわり」や「執着」こそが苦の根源だと思うから不必要な、自己満足の「こだわり」この世に永遠の生など存在しないにも関わらず持ってしまう生への執着辛さから逃れたいゆえの快楽への執着脳出血になり障害者になった事を今だに受け入れ切れないいつまでも健康でありたかったなどという存在もしない永遠の健康への執着一生の内でもほんのいっときの状況にすぎないにも関わらず、体力自慢の自分へのこだわりそんな執着やこだわりがあるから障害に苦しみ不自由に苦しみ痛みに悶え苦しむそんな不必要な、こだわりや執着を捨てるために、主観を捨てること徹底した客観性に務める事主観こそ、自我であると思う客観的になるためには痛いとき、苦しいとき辛いとき、悔しいとき怒りや悲しみに襲われとき、「痛い!」と思う代わりに「苦しい!」と思う代わりに「辛い!」と思う代わりに「悔しい」と思う代わりに「腹が立ち、許せない!」と思う代わりに「悲しい」と思う代わりに「僕は(彼は)痛がっている」「.僕(彼)は苦しんでいる」「僕(彼)は辛い思いをしている」「僕(彼...
人間について

徒労も訓練のうち?

今日、長嶋茂雄さんの国民栄誉賞の表彰式を観ていて思った。脳卒中の麻痺の回復が如何に難しいものか、あらためて痛感した。長嶋茂雄さんも脳梗塞を発症してからもう丸9年である。先々月にも長嶋茂雄さんのリハビリの様子をテレビで放映していたけど並大抵のリハビリではなかった・・ある意味「長嶋さんらしい」いわゆるスパルタ式のリハビリであったしかも一流のセラピストを付けて特注と思われるようなリハビリ用のマシン?を使いリハビリをしていた今日観た感想は「それでもここまでか~」というのが正直なところである脳卒中後の麻痺のリハビリ、、これほど「徒労」に感じる事はないと思ういくらリハビリをしても成果はほんとんど感じる事はないいわゆるスポーツでの「筋トレ」とは全く違う、筋トレなら成果はすぐ(10日ほどあれば多少なりと変化は出てくる筋肉痛がそれである昔、身体を鍛えるために筋トレをして翌日くらいに筋肉痛がきたら嬉しくなったものだ筋肉痛=筋肉が鍛える事ができている証拠だからだでも、脳卒中後の麻痺のリハビリは全く違ういくらやっても「成果」と言えるものは感じる事はできないそれもそのはず、、脳卒中後の麻痺のリハビリは、訓練は手...
人間について

弱い人間だからこそ・・

昨夜の記事のコメントに「なぜ、それほど完璧になろうとするのか?」というコメントを頂いたのでそのことについて書こうと思います。僕は決して完璧な人間になろうとなんて、おこがましい事は考えていません。昨夜の記事のように考えていないと、辛くて、辛くて自分が壊れてしまいそうだから、、ただ、それだけです。今はゴールデンウィーク中ですがテレビ等で流れる、行楽に行く家族を観たりするとそれができなくなった息子や家族を行楽に連れていって、せめて、息子と野外で走り回って遊んであげたいそんなことさえできなくなったなった自分がとても辛い・・辛く感じるだから、そんな自分が壊れないように、最悪、自分で自分の命を断つような事をしないように、ただ、それだけのために、そして自分で自分にハッパをかけるために、自分に言い聞かせるためにこのブログを書いている。そうしていないといつか、どこかで壊れてしまうような普通の弱い人間です。だからこそ、自分にハッパをかけ続けなければ生きていけないと思う。僕は決して強い人間なんかではない嘆きもするし、憎みもするし、怒り悲しみもするごく普通の、いや、普通より弱い人間だとも思うそんなことは自分が...
人間について

決して嘆かず、悲しまず、怨まず・・

半身麻痺の疼痛の痛みや痺れに対して決して嘆かない決して悲しまないそして、そのことによって脳出血になったことを恨まない嘆く、悲しむ、怨むとは心の動きであり心の作用であるそんな心の動きで麻痺が回復するわけでもない不自由が解消するわけでもない痛みは耐えるものだ痛みや痺れに嘆き、悲しむことは、その分心のエネルギーを消費してしまう結果として、痛みに耐える心を弱くするだけだ。痛みは耐え、闘うものだ嘆くことではない不自由も同じ不自由は知恵でしか乗り切れない嘆き、悲しんだところで不自由が解消されるわけでもない不自由に嘆き、悲しむことも、心のエネルギーを消費してしまう不自由を解消する知恵を生む心を弱くするだけ・・だから不自由にも痛みにも決して嘆かず、悲しまず、怨まず・・生きていこう