人間について

自我なんて余計なものかなり消えたかも・・

さっき・・風呂に入るのに家内にバスタオルをくれと言った2階にあったので取りに来いとのことそして取りにいったそして2階から階段を降りるとき僕は何気なくそのバスタオルを口にくわえながら降りていた僕は階段を降りるとき(昇るときも)手摺りを持たないと昇降できないだから健常な右手で手摺りを持つおのずと麻痺した左手しかない状態になるので何かを持って階段の昇降はできないでもいまさっきやってのけたバスタオルを口にくわえながら・・よく考えると今、僕の口はかなり左手代わりになっているそういえば、服を脱ぐときも右腕を袖から抜くときも口で右袖をくわえて抜いている半身麻痺に成った当初、リハビリ病院の療法士さんに何かのおりに「まだ口を使うのは悔しいでしょうね」と言われたことを思い出した悔しい・・?そうだ!今、口を使うことに「悔しい」とか「恥ずかしい」という感情がほとんどないよく考えるとこの「悔しい」とか「恥ずかしい」という感情こそが「自我」がある証拠ではないか「自我」などというものさえなければ「悔しい」とも「悲しい」とも思わずに必要とあれば口だって使えるのだもちろん口でくわえるから多少の唾液は付着するそれが「イヤ...
人間について

潜在意識ではやっぱりまだ苦悩しているな。。

昨夜も左半身麻痺で泳げないというイヤな夢を見た。なんと学生時代の水泳部の監督まで夢に出てきたそしてフォームが悪いとどやされ、叱られるんだけど効き腕のある左腕がどうやってもうまく動かず、必死に正確なdフォームで泳ごうとしているんだけど泳げない・・・でも監督はそれを分かってくれないそんな状況でプールで苦しむという夢・・うなされて目が覚めたみたいで起きたら寝汗を書いていた気分(心理状態)も劇悪・・起きてからあまりに虚しくなって涙が出そうになっていた・・昼間、起きているときには、理性で虚しさや悲しみや嫌悪感を抑えこむことができているみたいで「かなり乗り越えた」かなと思っていたけど眠っているときにこんな夢を見て苦しいということは潜在意識ではまだ乗り越えていれなくて苦悩しているっだろう。。
人間について

挫折・失敗・裏切りに落胆する必要なし、むしろ宝である

挫折・失敗・裏切り、、等々は心をネガティブにしてしまいがちだでも僕は最近思う。。そんなことで落胆し、心をネガティブにする必要など全くないと・・挫折・失敗・裏切りに会ったことは、こうすれば(或いはこうなれば)挫折・失敗・裏切りにみまわれるのだという大きな発見ではないかその発見は実体験だから、何にも勝る知恵を獲得したことになるのではないか例えば僕は脳出血により半身不随の障害者になったけどそのおかげでこういった中途障害者がどんな苦しみを思っているのか或いは社会からどういう扱われ方(仕打ち受ける)をするのか初めて実体験として分かったこれこそ人生最大の発見である例えばこのブログを書きはじめてから同じような障害者の方から様々なメッセージをもらった、その結果、障害者というものが如何に邪魔者(厄介者)扱いされ最後には見放され、(配偶者だけでなく、親兄弟からさえ)離縁されるという事例が実は非常に多いということを知ったそのことで僕は東日本大震災後メディアがしきりに強調している「絆」というものが如何に脆く、信頼できないものであるかを発見したメディアの報道とは裏腹に被災者は震災の影響で様々な人間関係の崩壊によ...
人間について

痛み=苦=PAIN

僕は脳出血後、この5年間左半身は常時痛み、そして痺れており重度の感覚障害に苦しんでいる重度の感覚障害・・これは言葉では説明できない左半身は常時痺れと痛みがあるせいか何かが触っても何も分からない・・難治性の激痛、視床痛(別名:中枢性疼痛)というヤツのせいであろう痛みを英語では「PAIN」というでも更に「PAIN」には「苦しみ」という意味もあったそうだ!その通りだ、人間にとって痛みは「苦」そのものだと思う運動麻痺の不自由なんかよりもずっとずっと辛い「苦」以外何ものでもない僕は5年間この「苦」を感じ続けているそう考えると僕の感じていた「苦」は身体的不自由なんかではなく身体的痛みと痺れに苦しんでいたのだ5年間ずっと絶え間なく感じていた身体的痛みこれこそが僕の苦の要因だったと思う一切皆苦・・そのものだそしてこれからも・・ずっと・・・だ生きることは「苦」に満ちているそれhは実感として分かる。。いつこの「苦」は終わるのか・・
人間について

人間にとって幸せとはなんぞや

今年、いや今年だけでなく今後の僕のテーマは人間にとって幸せとは何かをテーマに追求していきたい障害者になってしまった今の僕は健常者が五感で楽しめる楽しみのたぶん90%くらいはできなくなっているだから健常者が幸せを感じていたようなごく普通に人のようにリゾート旅行や各種スポーツそして食事でさえも「楽しみ」とはならなくなってしまった(椀は持てないし、バイキング料理なんかは料理を取りにいくのが辛いだけだしにナイフとフォークは使えない)そんな日常生活の中で今まで楽しいと感じていたことはほとんどできなくなってしまったこんな身体でもどうやったら幸福感を感じることができるのか・・今まで健常なときに楽しいと感じていた事イコール「幸せ」なのかが僕のこれからの最大のテーマであり課題だと思うからそれをテーマに追求してみようと思う
人間について

意味・・(生きる)

生きる意味と意義人は生きる事に意味を求め意義を作り出そうと懸命になるが生まれてきたことには何の意味もないこの世に生きる生き物はすべて同じ草も木も花も鳥も魚も貝も虫もそして目に見えぬ微細な生物もみなただ生まれて今を生きて移り変わってやがて死んでゆくただそれだけのことだが人間だけが死を極端に怖れる遠い未来の死にさえも怯えるそれは今生きていることの「快い刺激」を失うことを怖れるからだ人が生きている間にする事といえばこの心身の快いものを追い求めるだけのこと見目よいもの、甘美な音楽、香しい匂い、美味しいもの華麗な衣装、豪華な車、そして豪華な住まい楽しい時間、おもしろい出来事・・目、耳、鼻、舌など心身の五感に心地よい刺激を与え続け、それをひたすら追い求め一生を送るただそれだけ、そこには意味も意義も存在しない人の欲望・・生きるためにはわずかのものと食糧さえあれば足りる人間以外のすべての生き物はそれだけで生きているけれども人間だけがそれだけでは足りず、食糧も衣服も住まいもいつまでも足りることを知らない心も満ち足りて十分ということがないもっといっぱいもっと多くをもっと、もっと もっと、と飽かずに求め続け...
人間について

死への準備

正月早々「死」などという言葉を使うとは縁起が悪いというかもしれないけれど僕はあえて死を意識したいと思う5年前、脳出血にみまわれたとき既に僕は死んでいてもおかしくなかったそして幸運?にも5年後の今日も僕は生きているだがしかし今も僕は死に向かって歩み続けていることには変わりない自然の理(ことわり)がある限り人間はいつかは必ず死ぬそしてそれは誰にも避けることはできないもし時計が円を回るような形でなく、横軸に時間があり(右に行くほど)時間が経過する)針がその横軸を右に向かって動いていくというような形式でその右の端が自分の死の時刻というような時計だったとしたら正月が来たことを祝う気にはなれないであろうなぜなら、その時計を見れば毎年正月を迎えるということは自分の死の時刻に向かって刻一刻と近づいているということであるということを否が応でも意識せざる得なくなり誰も正月を祝う気にはなれないだろう(その意味で一休の言ったことは正しい)でも大切なことは迫り来る逃れられない死を恐れることよりもその死の準備ができていないことを最も恐れるべきではないか死の準備とは「最期のとき」に自分の人生は納得できた人生かどうか...
人間について

生きてやる

明けましておめでとう今日で51歳を迎えた、、人は五十にして天命を知るというけれど、5年前は50歳を越えられるとは本気で思っていなかったけど今日、越えてしまっただったら、この際どこまでも生きてやるまだ生きることが本当に幸せなのか僕自身は定かではないけれど、どうせl生きるなら、やっぱりこんな身体でも人の役に立っていたいと思うからせめて人の負担にならないように生きてやる