自己犠牲と絆と自分


かつて、三島由紀夫は、男の美学は「自己犠牲」であると言ったという・・

自己犠牲、、

素晴らしい響きの言葉であると思う

この言葉に僕自身が引っかかるものがある

人は自己犠牲の精神を見せ付けられると、

その人に着いて行こうと感じるものだと思う。

その人との間に「絆」も生まれると思う

自己犠牲はなにも、男だけの美学ではないと思う。

女性だって、子供に対しては自己犠牲の精神を発揮する事があるではないか。

そんな意味では自己犠牲とは人間としての生き方の美学ではないだろうか。

特に、男たるものいつかは一家の主となる。

家族に対して

自己犠牲の精神を覚悟をしなければならないときではないだろうか。

自己犠牲の姿勢の見える父親であれば、

自己犠牲の姿勢の見える夫であれば、

妻も子供も着いて行こうという気持ちになるであろう。

企業経営者にしても同じだと思う。

僕はこれまで自己犠牲の姿勢のある社長と

全く逆の自己防衛がありありと見える社長の下で仕事をした経験がある。

自己犠牲の姿勢のあった社長は、経営が苦しく、社員に給与が払うのが難しいとき、

自らは給与を取らず、

しかも、闇金にお金を借りてまで給与を払ってくれた。

当時、その社長の髪の毛が、みるみるうちに白髪になっていくのが分かった。

僕はそのときのたまたま闇金からの借用書を見てしまった。

そして、その社長に着いて行こうと思った。

決してこの社長を裏切ってはいけない・・

そう思った。

反面、自己防衛の強い社長のときは、、

日頃(順調なとき)は調子が良かったけど、

経営状況が悪くなるにつれ、

いわゆる「社長風」を吹かすようになってきた。

「社長風」とは、

お前達従業員を食わせてやっているのは社長であるこのオレだ

という様な態度や言動である。

挙句、仕事でミスがあり、クライアントに謝罪に行ったときは、

従業員のせいにしていた。(さすがに隣りに座っていた僕のせいにはしなかったが、、)

こんな姿をみると、着いて行く気になんかならないものだ。

反面さっき書いた、自己犠牲の姿勢があった社長は

、苦しいときでも、そんな事はおくびにもみせず、

クライアント先での失敗でも、徹底的に僕を擁護してくれたものだ。

人は自己犠牲の精神を見せ付けられると、

その人に着いて行こうと感じるものだと思う。

自己犠牲はなにも、男だけの美学ではないと思う。

女性だって、子供に対しては自己犠牲の精神を発揮する事があるではないか。

そんな意味では自己犠牲とは人間としての生き方の美学ではないだろうか。

社長たるもの

そして政治家たるもの、

こんな自己犠牲の精神なしでは

やってはいけないのではないか

特に男たるものいつかは一家の主となる

古い考え方だと言われるかも知れないけれど、

家長たるもの家族に対して、

自己犠牲の覚悟が必要なのではないだろうか。

自己犠牲の姿勢や覚悟の見える

父親であれば、

自己犠牲の姿勢や覚悟の見える

夫であれば、

妻も子供も着いて行こうという気持ちになるであろう。

企業経営者にしても同じだと思う。

僕はこれまで、自己犠牲の姿勢のある社長と、

全く逆の自己防衛があり、ありと見える社長の下で仕事をした事がある。

自己犠牲の姿勢や覚悟のみえた社長は、経営が苦しく、社員に給与が払うのが難しいとき、

自らは給与を取らず、しかも、闇金にお金を借りてまで、給与を払ってくれた。

当時、その社長の髪の毛が、みるみるうちに白髪になっていくのが分かった

僕はそのときのたまたま闇金からの借用書を見てしまった。

そして、その社長に着いて行こうと思った。決して裏切ってはいけない

そう思った。

反面、自己犠牲の精神も覚悟も全くみえないある意味「自己防衛」の強い社長の下で仕事をしていたときは、

日頃(順調なとき)は調子が良かったけど、

経営状況が悪くなるにつれ、「社長風」を吹かすようになってきた。

「社長風」とは、

「お前達従業員を食わせてやっているのは社長であるこのオレだ」というような態度や言動である。

挙句、仕事でミスがあり、クライアントに謝罪に行ったときは、

従業員のせいにしていた。(さすがに隣りに座っていた僕のせいにはしなかったが、)

こんな姿をみると、着いて行く気になんかならないものだ。

反面さっき書いた自己犠牲の姿勢が見えた社長は、

経営が苦しいときでも、そんな事はおくびにもみせず、

クライアント先での失敗でも、徹底的に僕を擁護してくれたものだ。

自己犠牲の覚悟さえあれば、どんな苦しみにも、どんな理不尽にも怒らず、

嘆かず、悲しまずにいられるのではないかと感じる

でも僕はこの「自己犠牲」という言葉と「絆」という言葉に引っかかるものがある

東日本大震災以降、「絆」というものの大切さを言われているけど

「絆」って自己犠牲の上に成り立つものではないかと思っている

でも本当にそんなに簡単に人は自己犠牲的の行動なんてできるものなのだろうか。

ほとんどの人は自己犠牲の反対の自己防衛(悪くいうと保身)が先行すると思う。

なぜなら、

自己防衛は本能であり、

自己犠牲は理性だから

人は危機に直面したとき、本能的に自己防衛の行動をすると思う

それは僕自身の苦い経験で感じたことだ

よく、危機に直面すると家族は一致団結するというけれど、

そんな甘いものではないと感じたからだ。

危機に直面すると絆が強まるとかいうけれど、

本能的にそれぞれが自己防衛(いわゆる保身)の方向に行動すると「絆」なんて崩壊する。

それどころか醜い争いにさえ発展しかねないと思う

僕は僕が倒れとき、周囲が保身に走る状況を見せつけrられた。

そのとき止むにやまれず怒りと共に書いた記事と投稿が以下のページだ。

http://ameblo.jp
/ecoshun/entry-10712431140.html

怒りのを向ける矛先がなく、以下のようにWEB上に投稿で怒りをぶつけた

侮辱罪と養育費義務について - OKWAVE
私は(仮名田中)46歳で、昨年脳出血に倒れ、半身麻痺となってしまい無職になってしまいました。妻が一人、6歳の子供がおり、途方にくれております。 当然生活が成り立たなくなってきており、今後どうするかとい..

まだ片手タイピングが慣れていない時期だったので誤字だらけだったが・・

上記のURLの「田中」を「岡下」に置き換えれば全てがわかる

今から考えると、僕が倒れた事に対して、皆、本能的に自己防衛に走ったのだと感じている。

皆が自己防衛に走ると、「絆」なんて生まれるわけがない。

そんな経験から「東日本大震災によって人々に「絆」が深まった」という美談をメディアを報じているけど、

本当なのだろうかと僕は疑問を持っている。

なぜなら、上述のように「絆」は自己犠牲の上にしかなり立たないと感じているから、

だから、それほどまでに皆が「自己犠牲」を払えているのだろうかという疑問だと思っている

メディアは「人が感動しそうなうわべの虚構」だけを報じているような気がする

自己犠牲の上に成り立つ「絆」なんてそんなに甘いものではないと思う

実は保身と保身のぶつかりあいで醜い争いになっている場面が

多々起こっているのではないかと思うのだ。

自己犠牲・・

この言葉で思い起こすのは、

太平洋戦争末期のあの神風特攻隊であり、

最近ではイスラム原理主義者による自爆テロだ。

どちらも自己犠牲を払っている

でも美談とは思わない

美化もしない

どちらもその自己犠牲を払った人間の上層部の保身の道具だと感じるから

あの神風特攻隊も結局は当時の敗戦色濃厚な状況における

日本政府の上層部が降伏の条件を少しでも有利にしたいという保身の犠牲に過ぎなかったから

もちろん特攻隊に志願した若き兵士ひとりひとりは

本心から自分の自己犠牲により日本を救えるという

純粋な気持ちだったと思うから その生き様(死に方とは言いたくない)は

人間としての自己犠牲という美学を全うしたのだと思う

美談ではなく美学というのは、

僕なりの解釈では、

美談とは・・

過去の過ちや行動を「美化」し、「正当化」すること

美学とは、、、

その人が生きるための心の拠り所となるポリシーのようなものだ

と思っている

だから自己犠牲とは美学ではあっても美談ではないと思っている

自己犠牲の死の決意なんてそんな甘いものではないと思うから・・

特攻による死の瞬間を想像すれば、人の死は決して美しいものではないと感じる

美しいどころか、悲惨である、凄惨である。

でも、そんな凄惨な死に自ら向かっていくことのできる自己犠牲的な行動は

人間としても美学であると思う。

そんなことを思いながら、明日で齢50歳を迎える僕だけど、

せめて「自己犠牲の覚悟」だけでも持ちたいものだと思う

なぜなら、

それだ凄惨な死や悲惨な人生を送る覚悟できれば、

今の半身麻痺という障害ごときに

泣き言を言わなくて済み、

泣き言を考えなくて済み、

そして

怒りも

悲しみも

憎しみも

感じない強い心になれると思うから・・

明日、50歳の・・

来年2013年の僕のテーマは、

「自己犠牲」かな・・

投稿者プロフィール

代表
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。
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