僕は煩悩をなくすことが生きるあらゆる苦悩から解放されるのだと考えていました。
ゆえに無私無欲というものを追求していきたいと考えていました。
体が不自由になった心の苦悩だけでなく、中枢性疼痛の身体的な物理的な痛みの苦痛でさえも
煩悩をなくすことで解放されるのではないかと考えていた。
しかしそもそも人間である以上煩悩を完全になくすことなど不可能ではないかとも
思っていた。
できないとしても少しでも涅槃の境地に近づこうとする努力が大切だと考えていた。
つまり禁欲主義のようなものである。
ところが煩悩即菩提という考え方は
そもそも人間が完全に欲を断ち切るなどということは不可能だということを前提として、
どうせ断ち切ることができないのだから、
「欲望をそのまま喜びにかえてしまう」
という考え方だ。
つまり人間を悩ませる煩悩をその時、その場で、そのまま喜びに
転じてしまうというのだ。
実に面白い考え方だ。
西洋医学では、悪いところがあったらどんどん切ってしまいます。
胃ガンがあったら、胃を切ってしまう。
胃がなくても生きられる。
足が悪かったら足を切ってしまう。
足がなくても生きられる。
ところが東洋医学は悪いところをそのまま活かそうとする。
医学なら、悪いところを取ってしまうことができま
すが、煩悩を私たちからとることはできない。
できないのなら煩悩自体を喜びに変えてしまう。
こんなふうな東洋的な考え方だ。
つまりは「病と闘う」のではなく、
「病とうまく付き合っていく」というような意味だろう。
勝てもしない病と闘おうとするから苦しむのだ。
今回の東北大震災にしても同じではないだろうか
自然災害と闘って勝とうとするから無理をして負けたとき苦しみが倍増するのだ。
所詮、病気にしても、自然災害にしても、人間ごときがコントロールできるもの
ではないのではないか。それは人類の驕り以外の何物でもないと思う。
たとえば泳げないAさんと泳げるBさんが、海に行ったとして
風が強く、波が高かった為に、泳げないAさんは波にのまれを塩水を飲んで苦しんでいる。
では、波が苦しみの原因なのだろうか
泳ぎの達者なBさんから見れば「波があるから楽しいんだ、なくなったらつまらなく
なってしまう。」と思います。
波によってよけい楽しく泳ぐことができます。
この時、波は煩悩をたとえたものです。
波が苦しみの原因なのではありません。
煩悩即菩提となれば、人生の荒波も、泳ぎ切ることができるのだ。
僕は自分の今の身体の不自由さや痛みや痺れという苦しみを煩悩即菩提として
取り込むことができるだろうか。
そのためにはどうすればよいのだろうか
やはり自我を極力なくすことではないだろうか。
まだまだ煩悩即菩提になど慣れないけれど、この言葉は常に頭に入れておこう。
投稿者プロフィール
-
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。