人間について

「ごめんなさい」より「ありがとう」

僕が脳出血で半身不随となり、会社の破産させ、自己破産し自暴自棄になっていたころ、よく「ごめんなさい」という言葉を頻繁に口にしていたように思う。妻に対しては僕がこんな体になってごめんね。稼ぐことができなくなってごめんね。こんな障害者と暮らさなければが長くなってごめんね。息子に対してお父さんがこんな体になってごめんね。いっしょに遊ぶことができなくなってごめんね。でも最近僕は周囲に対してできる限り「ありがとう」と言うようにしている。例えば誰か(上司などに)に叱られたとき、「すみませんでした」「ごめんなさい」という人が多いであろう。でも「ごめんなさい」という言葉は「逃げ」になると思ったのです。「ごめんなさい」という謝罪の言葉はいう方も言われる方もネガティブな気持ちになるものだと思うから。。。だから叱れたときには「ありがとう」というのだ。つまり叱ってくれてありがとう・・という意味で・・「ありがとう」という言葉は人の心を前向きにさせると思う。ただそれだけの言葉で人の心は前向きになれるような気がする。だから妻に対しては僕といっしょに過ごしてくれて「ありがとう」ほとんど収入もないのに家計をやり繰りして...
人間について

思い悩むのはやめよう

なぜ、痛いのかなぜ、こんなに苦しいのかなぜ、僕・・こんなに苦しまなければならないのかそんな事を考えるのはやめよう。思い悩んでも解決しないことではないか。思い悩むと心が折れてしまう。痛みとは闘うしかないんだ。痛みに負けたら死にたくなるだけだ。なぜ痛むんだ・・なぜこんな風になってしまったんだなぜ僕が・・そんなこと考えたって仕方ない僕は脳出血で半身麻痺の障害を負ったんだ。痛みや痺れとは闘うしかないんだ。耐えて乗り越えるんだ。それだけのことだ・・なぜ・・などと思い悩むから、心まで病んでくるんだ。体の「状況」と心の「状態」は別だ。体の「状況」に心の「状態」まで翻弄されてはいけない。心さえ乗り越えれば、幸せになれるんだ。幸せは「身体や周囲の状況」ではなく、心の「状態」なのだから・・
独り言

できない症候群

走ることができなくなってしまった。。。泳ぐことができなくなってしまった。。。それがつらい・・~ができない~ができなくなってしまった。~もう二度とできなくなってしまった。僕は「できない症候群」に陥ってしまった時期がある。「できない」のは「できないと思う」からそして「知らない」からできないだけなんだ。僕は普通に歩けないでもタクシーにのっているときやソファーにソファってテレビを見ているときに歩けないことを考え悩んでも仕方がない。あるときタクシーや電車に乗っているときの自分は他人と同じであることに気がついた。他人と同じように「移動」できているということに気がついた。僕は道を歩くときは人より歩けないけど、電車やタクシーに乗っているときは以前(脳卒中前)と何も変わらないことに気がついた。その部分は僕にとって不変なんだ。そんな不変な部分が実はたくさんあることに気がつき始めたころから心の道が急に開けてきたような気がする。できないことに「なぜ」と問いかけても何も意味もないことに気付き始めた。雨が降って濡れてしまうときに「なぜ雨が降っているのか」と悩むようなことと同じだ。「雨が降っているなら傘をさせばよい...
人間について

過去には戻れない

今日、息子と一緒に映画「スパイキッズ」を観に行ってきた。3D上映だったので子供向けの「特撮」ばかりの内容の薄い映画だと思っていたら意外とそうでもなかった。かなり見入ってしまった。根底に流れているテーマは「過去を振り返っても仕方がない。前を向いて生きよう」というものだった。映画の悪役は時間のスピードをコントロールできるという奴で、世界の時間のスピードをどんどん上げていき、一刻も早く世界にアルマゲドンを起こそうとするというストーリーだった。でも、この悪役には実はトラウマがあって、昔父親と楽しく一緒に過ごす時間がなかった。父親と過ごす時間が少なく愛してもらえなかったというトラウマがあり、過去に戻って父親との時間を取り戻したいという欲求から時間をコントロールできるようになり、そんな偏ったトラウマから世の中を逆恨みしているという設定だった。「過去に戻りたい」か・・僕も脳出血を起こす前に戻りたいと何度思ったことか・・でも、過去には戻れない。過去に戻って、泳ぎのの得意な父親に戻りたいと何度思ったことか・・そして息子に泳ぎを教えて、いっしょに海に潜りたいと何度思ったことか・・今日の映画を観て、そんな自...
独り言

再起する

資本主義に・・・僕は資本主義の本質に負けたのだ。。リーマンショックで会社が傾き、超巨大資本の会社からのクレームで脳出血を起こし、半身不随の障害者となり、会社を破産させ、こんな身体で無職無収入という惨めさを味わった。半分の人生を棒に振ってしまった。正に資本主義に負けたのだ。そう思っている。。資本主義の本質とは、資本主義社会のなかで強者とはお金を持っている者で、弱者とはお金を持っていない者のこと。強者は自らが持つ金を利用して弱者の搾取を拡大し、結果的に少数富める者は益々富み、大多数の貧しい者は益々貧するようになっていく。現在のアメリカでは5%にしか過ぎない少数の富裕層が全ての富の6割を独占し、全国民の30%が貧困家庭という。この格差こそが、現代の「この世のしくみ」であり、我々が住んでいる資本主義社会の本質であり、現実であることを僕は忘れない。これこそがアメリカの資本主義の「正義」なのだ!僕はそんな資本主義に負けたと思っているしかし、僕は終わらない。そして2度目は負けないそんな資本主義に心の中で挑戦状を書いた。僕は必ず再起する。 そして、この残酷な資本主義の中で勝ち残ってみせるたとえ、障害者...
人間について

天命を待つ

やるだけのことはやった・・こんな身体でもやれるだけのことはやったつもりだ。インドの企業への太陽光発電パネルのつなぎ・・再生可能エネルギーファンド組成の準備のための各種根回しあとは結果がどうなるか待つしかない。人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、人間、「これだけのことをやったのだから、これだけの成果が出て欲しい」と願ってしまうものである。しかし世の中、こればっかりはそうはうまく行かないものである。焦る・・・焦りの気持ちはいけない。焦りの気持ちは判断を狂わせてしまう。焦りの気持ちは心をネガティブにしてしまう。そうなると意欲も萎えてくる。待つ・・・ただひたすら・・待つ焦る気持ちを抑えて・・天命を待つというは難しいものである。この身体で最善を尽くしたではないかと自分に言い聞かせる。これまでずっと待っていたではないか。半身麻痺のリハビリがそうだ。リハビリを始めてもう3年になるしかし一向に左手も左足も思うように動くようにならない。これだけ毎日努力をしているにも関わらず・・ただひたすらやるべきリハビリをやって、成果を待つもう3年・・もうダメではないか・・諦めたくなってしまう・・そんな結果がな...
独り言

なぜ障害者になってからの方が事が成せる可能性が増えたのか

なぜ障害者になってからの方が事が成せる可能性が増えたのだろうか僕は思う。障害者にもか関わらず事をするらスゴいのではない・・と逆に障害を背負ったからこそ可能性が開けたのだ・・となぜなら、毎日が悔しい思いばかりしたからだと思う。半身麻痺になった当初は正直言って駅で目の前を歩く人をみるだけで悔しかった。僕は「普通に」歩くことさえできないからのである・・特にハイヒールを履いて歩く女性を見ると自分が情けなくなったものだ。。自分よりずっと細い足のくせにあんな不安定なヒールを履いて歩いていることが腹立たしく感じたものだ。本当のところ心の中では、できるなら目の前を歩く連中の足を切り落としてやりたいというとんでもない気持ちになったものだ。こんな気持ちは確実に僕の心のバネになっていると思う負けてたまるか・・そんな(決してポジティブではない今考えると嫌な自分の心だったが)気持ちが事を興す原動力になったような気がする。それを思えば健常者の頃の僕の心は貧弱なものだった。そんな気持ちになることはめったになかった。それが障害者となってからは、ほぼ毎日そんな気持ちになるのだからその悔しさたるや、健常者の頃にはなかった...
人間について

死後が「無」であることこそ究極の解放であると思うが僕は生きる

死後は魂など残らないと僕は信じているなぜなら残ったその魂は究極の孤独を味わうであろうからであるその魂は愛する人と永久にコミュニケーションを持つことができないのだから、、それはつまり意識があるにも関わらず、人との「つながり」を持つことができないという残酷な状況であると思う、更に残った魂は生きてきた人生を振り返り、あらゆる後悔の念に苛まれて、苦しまなければならないであろう。 だからこそ、僕は死後は無であってほしい。 脳=魂であってほしい 脳死=魂の消滅そう信じている。死後が無であることは僕の半身麻痺という障害による不自由や激しい疼痛などの生の苦しみからの究極の解放であるのだから、、だから僕は本当に死が怖くない。死が無であることは、この3年間に味わった僕にとっての究極の生の苦しみからの究極の解放であるのだから、、 しかし、僕は生きるたとえ、死が今の生の苦しみからの究極の解放であっても、今を生きている限り 、生きているのだから、障害者ではあっても精一杯生きたい。それは生きているからこそ味わえる人との「つながり」を感じることができるから・・「人とのつながり」は人の心による自分の心の支えになるから...
人間について

生と死と生きざま

人間の人生とはいわば死への旅路ではないだろうか。生きとし生けるものがいつかは死に至る。これだけは誰にも避けることができない。どんなに順境の人生であろうと苦境の人生であろうと、最後は必ず死を迎える。自然の宿命である。だた人間だけがこの宿命を知って旅路に対処できるいつ死を迎えるかはわからないにしても、生きている間にこれだけのことはやっておきたいなどと考えることができるのだ。これは別に老人だけに限らないと思う。若者が来たるべき近人生に備えていろいろと計画するのもいわば死への準備にほかならないのではないか。死を恐れるのは人間の本能であるけれど死を怖れるよりもしの準備の無いことを怖れた方が良いのではないだろうか。いつ死んでもよいと思えるような準備・・それは決して「成功すること」ではないと思う。なぜならいわゆる「成功した人」が死を恐れないかというとそうではないからだ。僕は思います。結果はどうあれ自分の人生を精一杯生きたという自信がを持てた人こそが死を怖れない、死の準備ができた人と言えるのではないだろうか。振り返って、自分を見たとき、人生の半ばで障害者になるという大きな挫折を味わってしまったけれど、...
人間について

自分に自信がなくなったとき・・

自分自身に自信がなくなってしまったとき自分の能力に限界を感じてしまったとき・・どうやってそんな精神状態から脱却すればよいのだろう。僕はやっぱり根拠のない希望を持つことだと思う。不安だって根拠がない。自分に自信がないというとき、ほとんどの人は自分は明日生きていると考えているのではないだろうかこれって、明日、自分が生きているという自信に他ならないのではないか。自信をを持っているではないか。何の根拠のない自信を・・皆、持っているのだ・・だから生きていけるのだ。じゃあ自身喪失状態に陥ったとき「根拠のない希望」をどうやって持てば良いのか。僕はこう思う。それって「意欲」だと・・「こうなりたい」とか「何が何でもこの苦境から脱却してやる!」という「意欲」ではないかと思う。「意欲」こそが生きる知恵とアイデアの源泉ではないか自分の身体能力やその他の能力に自信がなくなったとき自分の「意欲」に自信を持てばではないかと思う。誰にも負けない「意欲」・・人の「意欲」こそが希望ではないかと思う。だからこそ希望は世の中に存在するのではなく、人の心の中に存在(芽生える)ものだと思う。逆説的に考えると苦境だからこそ、希望の...