人間について

煩悩と苦・・僕の障害の苦しみを癒す方法について

煩悩があるから苦があるという煩悩による苦とは・・思うがままにならぬことを思うがままにしようとして人は苦しむそれは決して「強欲」とかいうものではなく普通に健康に生きたいという願いさえも煩悩なのかも知れない生きるというこさえ、確かに死にたくないということさえ思うがままにはならない思うがままにならぬことを思うがままにしようとして人は怒り、悲しみ、憎み、憤る「ごく普通のこと」を「ごく普通に」しかも「正しく」してきたはずなのに思ったようにならないそれどころか・・「ひどい目」に会ってしまうだから人は怒り、悲しみ、憎み、憤るそんなごく当たり前の「望み?」さえも煩悩と捉えるならば人が生きるということは苦の連続ではないか例えば、それは車を運転していて、こちらはごく当たり前に「正しい」運転をしているのに周囲の人の交通違反の運転せいで交通事故に合うようなものか・・正しい運転をして交通事故に合わない・・そんなことさえ「思うがまま」にならない交通事故に合わないためには「車を運転しないこと」以外の方法がないではないかだとしたら・・僕の脳出血なんて、どうしようもなかったのかもしれない生き物として生きている限り・・病...
人間について

痛みと悔しさと悲しみと怒りが消える瞬間

こんな僕でも疼痛の痛みや痺れも障害者になったことによる悔しさと悲しみと怒りなども消える瞬間がある・・それは人とコミュニケーションをしている瞬間だということに気が付いた痛みや痺れによる苦悶の表情を人前に出したくないという潜在的な意識が働くのか言葉によって人との関わりを持つことによってリラックス(生きている実感かの安堵のようなもの)を感じることによる効果なのか自分でも定かではないとにかく、人と言葉を交わし、人間同士の繋がりを感じている瞬間僕は心の奥で喜びのようなものを感じていることは間違いないそれが物理的な疼痛の痛みや痺れまで和らげる効果があるのかそれはわからないでも、少なくとも、障害者になったことによる悔しさと悲しみと怒りなどは薄れていることは確かだと感じるだから生きていたい人と「つながっている」ために・・・
人間について

死の恐怖と生の苦悩と喜び

今、僕は死ぬことは怖くないこれは強がりでも何でもないなぜなら(少なくとも今の僕にとって)死はあらゆる苦(痛)「痛み・痺れ、不自由による屈辱感等々」からの永遠の解放であり、「無」への回帰だからだだから今僕は(無理して)生きたいとは思っていない(むしろ心のどこかでいつでも死にたいと思っているような気がする)でも理性では・・生きなければならないそう考えている僕が健常者の頃・・生活苦等々あらゆる苦悩の結果、自殺する人をメディアなどで見たり聞いたりしたとき「死ぬ勇気があるなら、死ぬ気で頑張れば苦境なんて打開できるし、何とでもなるのではないか」と考えていたでも今は違う「死ぬ事」より辛い「生きる」というものがある事を身を持って知ったから・・今僕は「天国」や「地獄」というようなものはあの世に存在するのではなく、今この瞬間、人間が生きているこの世に存在すると確信している今、確かに僕は毎日が辛い、、でも生きなければならないなぜそう考えるのかそれは僕にとって一番大切なもの「人との繋がり」・・「絆」とでも言うのだろうか死はそれを捨てることになるから・・耐えがたい痛みや痺れに耐えているとき或いは不自由で自分が不...