人間について

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伝わらないけど伝えることはできる

僕の本当の辛さを伝えることは本当に難しいどんなに言葉を尽くしても絶対に誰にも分かってもらえないだろうけどだろうけど僕には言葉が残っていることは確かだ。そして右手だけでイライラするけれどキーボードも打つことができる話をすることもできる。はじめはミスタイプだらけで、校正だけで何時間も時間はかかるけどいろんな提案書は作ることはできる文章も作ることはできる。これは僕が社会とつながりを持つことができるための、そして役に立つために遺された唯一の能力だ。昔のように走り回ることはできないけれど技術の知識を持っていてもボルト一つ留められなくなってしまったけれど屋根に上って太陽光パネルの状況確認もできないけれど、それを「伝える」ことはできる能力は残してもらった。この人に「伝える」能力こそが人間の文明の発展の大きな原動力ではないかと思う。これこそが人の「絆」をつくるものでもあると思う。多くの身体機能を失ってしまった僕だけど人として一番大切な能力だけは残してもらったと思う。だからこそこの「伝える」能力を使って障害者であっても世の中の役に立ちたい世の役に立つ人間でありたいと思う。僕の本当の辛さは伝わらない(伝え...
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期待こそが裏切りや憎しみや怒りを生む

期待する心こそが裏切りを感じる心を生むのではないだろうか善人の善行は善行をすることで何も期待しないのだろうかもし善行をすることで何かの見返りを期待してるとしたらそれは本当の善人といえるだろうか僕も障害者でも人の役に立ちたいという気持ちに本当に何の見返りも求めてはいないだろうか見返りを求め、見返りがないと(それどころか何の評価もされない)と怒らないでいられるだろうかこの世には悪があって当然であり、(古今東西、悪も善も存在するのがこの世である)その悪とか裏切りとかがあるのが世の中の常であり、それが人間の本質であると認識できたならば、そしてすべての人間がいつかは病に冒され、老い死を迎えいつかは苦しむのであると認識できたならば、今の自分に起きたことも自分の身の回りに起きた災難も全て許せるだろうに・・全てを許し、ひとり静かに過ごすことができる日々を僕は送りたいそのためにも今この身体でできる事を精一杯やろう憎しみや怒りにうち震えてもどんなに痛くても、痺れがつらくても今この身体でできる事を粛々とやるしかない。期待をするから裏切りを生む・・いや感じるのだそして怒りや悲しみや憎しみまでも生まれるのだただ...
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無私になりたい

やっぱり無私であることは最強だと思う無私・・自我をなくすこと 煩悩をなくすこと健常者に戻りたいという自我がなければどんなに生きるのが楽であろう自我があるから憎しみが生まれる障害に対する怒りも生まれる障害に対する悲しみも生まれるインドの苦行僧は痛みさえも自我を無くすことで消えると信じて修業しているという痛みさえも煩悩のせいだという僕は脳卒中の後遺症の経験から痛みは「脳が作り出すもの」だということを実感しているだとしたらインドの苦行僧の痛みさえも自我を無くすことで消えるというのは正しいと思う自我を無くすことができれば怒りや悲しみや憎しみなどの「心の痛み」はもちろんのことこの肉体的な痛みや苦しみさえも和らぐのであればそして苦しまずに済む人を憎まずに済む怒らずに済む悲しまずに済むそしてすべての物事を私心なく大局的に見ることができるようになれるならば僕は自我を無くしたいそのためにも「無私」を心掛けたい生身の人間である限り無理なことはわかっているけれど・・
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感覚障害脳卒中患者の戯言:世界は自分が中心~霊界は存在しない~魂も存在しない

世界は自分が中心であると思うこれは以前の記事でも書いたことがあるけど僕は健常者の頃からそう感じていた。それは決して自分中心とか利己主義とか増してやヒトラーや先日民衆によって殺されたカダフィ大佐のような独裁者のつもりでもない感覚なのである。そしてその感覚は脳卒中により感覚障害というものを患ったことにより確信に近いものになったそれを説明するためにまずは感覚障害というものがどういうものかをもう一度説明しなければならない僕は重度の感覚障害である。例えば混雑したショッピングセンターですれ違った人の肩に自分の感覚のない左肩がぶつかったとき僕の右肩が前に出てよろける。でもなぜよろけたのか全く分からないのだ。透明人間にでもぶつかった感じ・・・でもないのだそもそも左肩もぶつかった感覚さえないのだもし感覚があればたとえ透明人間であっても「ぶつかった感覚」は「左肩に存在」するその感覚さえ「存在しない」のだ。そこには「何もない」のだ。だからなぜよろけたのか全くわからない目で左側を見ると左肩が人にぶつかっているのが「見えて」からはじめて左肩がぶつかったのだと認識するのだ。それまでは「何の感覚もなく、何も存在しな...
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苦しいからこそ元気な時を大切にしよう

僕だってときには身体が楽なときがあるほんの一時的なものだけどなぜだか理由はわからないほとんどの時間は苦しい痺れる痛い左側が重い疲れるこんな感じだでもほんの一時的なものだけれど、その楽になときまで自分の障害の事に思い悩むのはもうやめよう身体が元気な時は大いに楽しもうせっかく元気なのだから・・そんなときにまで障害のことで悩むなんてもったいないではないか元気な時にはできることを思い切りやろうよく「時が解決する」とアドバイスされたことがあるときが経ち記憶が薄れることで不安や悲しみが解消できるならばそれは「忘れる」ということだと思うどうにも忘れる事ができない場合、残念ながら「時」は何も解決してくれない僕の場合、左側に障害が残っており、その上右側に健常な身体が存在するのだ健常な頃の自分も障害を負ったことも忘れようにも忘れることはできないだから時は何の解決にもならないだからこそほんの少しの間でも元気になれる瞬間があるのだからその瞬間だけでも大いに楽しもうこの身体でできることを最大限やろう
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瞬間、瞬間を精一杯生きる

本当に瞬間、瞬間が精一杯だ。。朝起きてベッドから立ち上がるだけのことがどうやってバランスをとるかまず考える。足を少し引き体重を思い切り前に持っていくそしてタイミングよく左脚を伸ばす・・よいしょ!ヨロヨロとしながらもやっと立てたたかがベッドから立ち上がるだけでこれだ・どれから着替え着替えだけで30分はかかるだって左半身は感覚が無いから着れたかどうかは目で確認するしかないだから背中側の服がめくれていてもわからないだからか鏡で身体をねじって、更に首をねじって確認する今度は食事・・僕は左手で器が持てないだから器の場所がとても重要になる口から遠いと食べれない。だからまず器の置き場所を考える食べる順番もあらかじめ考える。靴を履くときも同じカマチの段差の高さをまず見る僕のひざの力で座れるか、そして立ち上がれるか何か掴むものはあるか靴を履くときも必死だ。まず健常の右足から履くそして右足で片足立ちしてバランスをとりながら感覚のない左足に靴を押し込む・・でも感覚がないから履けたかどうかが感覚ではわからないだから右手で履き具合を確認する日常生活がすべてこんな具合だ。毎日、毎日・・いわゆる「普通に生活する」だ...
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志とは持ち続けることに意義があると思う

志とは人生の目標や希望とは全く違うと思う志に達成などというものは必要ない志・・「士(サムライ)」の「心」と書く経済的成功や社会的成功を意味するものではないと思う心の持ち方だと思う。つまり結果ではなく「どう生きたか」が最も重要なのではないだろうか人生の最期に人の道に外れずに志を貫き通すことができたと思えたならそれでいいのではないだろうか。障害者となってしまった今、特にそう思う。この不自由な身体で、毎日痛む、痺れる、心も凹むような状態で大したこと(結果)ができるわけもないそれでもいい自分で持った志は人が何と言おうと僕の志だどんなにちっぽけなものでも人の道に外れない事でこの身体で精いっぱいできる事を精一杯やれていれば、たとえ結果がでなくてもそれに僕自身が価値があると感じていればそれは絶対的に僕の志だ志は「心の持ち方」である限り、何かを達成することが重要ではないと思う価値があると信じできることをどんなに苦しくともやる続ける心を持ち続ける事に意義があると思う。そう思っていないとこの障害の身体では世の中は達成できないことで溢れ返っているだからぼくは「そういう志」を持ち、今の僕にできることで価値があ...
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志を持つことが心の器を大きくする

大きな志を想うとき日々の生活や仕事の中で持つ心の痛み憤り、怒り、悲しみ、恐怖・・そんな自分のネガティブな心もとっても小さな悩みに見えてくる自分の障害さえもちっぽけな悩みに見えてくる志を持つことこそ心の器を大きくすると思う志とは目標ではない。志とは自分の生き様である志は達成するものではなく志は全うするものであると思う
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振り向いちゃいけない

また、振り向いてしまった・・振り向いたって何もないのに・・生きる意味について僕なりに答えを出した。あのダライ・ラマさえ明確に答えなかったけどおこがましいけど生きる意味とはこの僕に与えられた人生を生きる事そのものだと・・「障害を負って生きるという人生」を生き抜くことに少なくとも僕にとっての生きる意味があるのだそしてこの不自由に耐え、痛みに耐えこの人生を最後まで行く抜くことが僕の志なのかもしれない。何も大事をなし遂げることが志ではなく僕に与えられた人生をどんなに苦しくとも全うすることが僕の志そのためには振り向いちゃいけない振り向いてもそこには記憶しかない。希望は前にしかない 後ろにはない 絶対にないだから、一歩でも前に出ることだけを考えよう
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意欲こそすべて

身体の不自由さや痛みや、痺れが辛くて苦しいとき「負けるもんか」と思えるときと、思えないときがある何が違うのだろうか自分なりに考えてみた。一つは何かに感動したときである例えば感動する映画で主人公が最後の最後まであきらめずに頑張っている姿を観たときやぼくよりもずっとずっと重い病気に苦しみながらも生きている姿を見せつけられたときもう一つは使命感のようなものが湧き出てきたときだ。2年前息子が脳の病気(難病)で脳の手術をしたときだ。その病気は僕の病気の遺伝だっただから僕は何か責任のようなものを息子に感じていた。術後、手術室から出てきたとき息子の頭からはチューブが何本も出ていた痛ましかった。。 そしてすまないと思った。そしてICUに入った息子を僕は徹夜で見守ったその姿は見ていられなかったけど、僕に何ができるわけでもんしけれど「絶対に最後まで見ていてやるから安心しろ」と心の中で誓っていたそのときも自分の身体が不自由であることや痛みなども忘れていたように思うそれより息子の病状を見守るのに必死だったから・・今思うとそこにあったのは「この子は僕が何としても見守らなければならない」という強い使命感という「意...