人間の生き方

人間の生き方

自分を向上させるために・・

絶えず不愉快な忠告を耳にし、思い通りにならない事を抱えているからこそ自分を向上させることができるのだ耳心地よいことばかり聞かされ、思い通りになることが起こったらどうなるか・・それは自分の人生をわざわざ(驕りという)毒でいっぱいにしてしまい、そこからは堕落しかない。身体が不自由で痛みが辛くて、思い通りにならない事をたくさん抱えているからこそ僕は自分を向上させることができるのだ!
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心穏やかに生きたい

脳出血によって半身不随になってからというもの、、もう4年になるこの4年間、ほんの一瞬たりとも、左半身の痺れと痛みがなくなったことはないそして左半身は常時鉛のように重くつらいこれもこの4年の間一瞬たりとも、(健常者の頃のように軽くなったことはないそれはまるで鉛のついた足枷をはめられ一生を過ごした奴隷のようだと感じるだから常時気持ちを緩めることはできない常時気持ちは「負けるもんか」「ここで折れてはいけない」と張り詰め、痛みや痺れや身体の重さと闘い続けてきたいつになるのだろう気持ちの張りを緩め心穏やかに過ごせるようになるのは、、こんな状態で生きていると自分はいったい何のために生きているのだろうと思わざる得ないこんな僕が生きるために必要だと感じない事、それは、何回か記事に書いているように自分が人の役に立っていると感じられる事、、それは、自己満足に過ぎないかも知れないそれでも、そう感じる事ができる事が唯一、僕が頑張って生きようと思う事ができる瞬間だから、たとえ障害者でもたとえ自己満足あろうと人の役に立つ事を目指したい「ありがとう」この言葉を言ってもらえる事こそが経済的成功なんかより何百倍も嬉しい...
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主観を捨てる

徹底的に主観を捨てるように心掛けよう主観こそ、無意味な「こだわり」や「執着」の原因であり、この「こだわり」や「執着」こそが苦の根源だと思うから不必要な、自己満足の「こだわり」この世に永遠の生など存在しないにも関わらず持ってしまう生への執着辛さから逃れたいゆえの快楽への執着脳出血になり障害者になった事を今だに受け入れ切れないいつまでも健康でありたかったなどという存在もしない永遠の健康への執着一生の内でもほんのいっときの状況にすぎないにも関わらず、体力自慢の自分へのこだわりそんな執着やこだわりがあるから障害に苦しみ不自由に苦しみ痛みに悶え苦しむそんな不必要な、こだわりや執着を捨てるために、主観を捨てること徹底した客観性に務める事主観こそ、自我であると思う客観的になるためには痛いとき、苦しいとき辛いとき、悔しいとき怒りや悲しみに襲われとき、「痛い!」と思う代わりに「苦しい!」と思う代わりに「辛い!」と思う代わりに「悔しい」と思う代わりに「腹が立ち、許せない!」と思う代わりに「悲しい」と思う代わりに「僕は(彼は)痛がっている」「.僕(彼)は苦しんでいる」「僕(彼)は辛い思いをしている」「僕(彼...
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生きさせられているからこそ、生きなければならない

今日高野山に授戒に行ってきた・・半身麻痺という辛い状況の中、何か少しでも辛さを乗り越えられるヒントになるものがあれば良いと思って・・この授戒中は幾つかのお灯明が点いている他は窓も扉も全部閉められ、真っ暗な中で儀式が行われる。最後の扉が閉じて暗くなり、ぼんやりと灯明の光が見える中で、少々緊張しながら椅子に座って待つ(本来なら正座して待つのだが僕は左脚がある程度以上曲がらないので椅子に座らせてもらった)待つこと事数分。目が暗さに慣れた頃、阿闍梨様がお入りになられまして、授戒堂の壇上にお座りになられました。そして静かに真言を唱えられる。そして講話・・通常なら複数の授戒を受ける人ががくるのであろう授戒堂はおよそ畳50畳以上はあると思われる広い部屋だったところが今日みたいな平日に誰も来れるわけでもないく僕ひとりだったなんと畳50畳以上はあると思われる広い真っ暗な部屋に僕ひとりポツンと真ん中に座りなんと阿闍梨様と1対1での授戒である・・授戒中はその部屋への出入りは一切禁止お手洗いさえ行かせてもらえない。。どんな講話が聴けるのか少々楽しみにしていたけど残念ながら僕には講話自体少々退屈であった不殺生不...
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死ぬまで苦しみとの闘いの旅と生きる意味探しの旅である

僕はこれからもいや、死ぬまで障害の不自由と痛みや痺れと、そして障害を負ったことによって受けた屈辱と感じた絶望との闘いであり、その闘いに勝つために、一生、生きる意味を探し求める旅なのだろうと思う。なぜ、自分の人生はこんな風になったのかそして今なぜ、こんな身体で働き続け苦しみながら、ありとあらゆる屈辱に耐えながら生きていかなければならぬのかその答えを探し続けるだろうその答えが見つけられそうなところ(人の元)へはそこがどんなに過酷なところであろうと躊躇なく教えを乞いに行くであろうなぜなら、本当の意味での心の安寧を得たいからだ「耐える」ということで心が安寧している「フリ」をしているのはいつか限界が来ると思うから・・・
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忍耐の徳

忍耐の徳、、この言葉で思うのは僕の父だ僕の父はまさしく、忍耐の人だと思っている中学卒業後、風呂敷包み一つで大阪のメリヤス会社に丁稚奉公に出てきて、当時の親方には朝6時からよるは24時までこき使われて、文句の一つも言わずに必死で働いてきた人だそして当時の親方のはからいで、分け与えてもらった(その親方からはその土地はくれてやると言われていたそうだ)に家を建てた。にも関わらず、その親方の死後、その親方の息子が「その土地はうちのものだ、欲しかったら買え」と言いだした。でも僕の父は文句一つ言わず、約10年の借金をして購入したそしてさらに売ってもらった事に対するお礼までした。。。今でもそんな父が不甲斐ないと感じたことを覚えているこれは父が忍耐した一つの出来事だけど、父は何かにつけて、こんな風だった。どんな理不尽な事にも文句一つ言わずに生きて来た人だこのブログ記事にも以前書いたけど僕が脳出血で倒れた責任は僕の両親(つまり、僕の父)あるから、裁判になったら、僕らの生活の支援業務は僕の両親に生ずるなどと言う理不尽な(僕にとっては許し難い)ことを言った(ヤツ:あえて誰かは書きません)に対しても文句一つ言わ...
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やっぱり逆境はバネに!

屈辱、憎しみ、悲しみ、怖れこういった感情を持ってしまうとき、人は逆境にいると思う苦しくて、苦しくて、八方塞がりでどうしようもなく、苦しみもがいているこういったいわゆるネガティブな感情は捨てなきゃいけないそして、前向きな気持ちで且つ無心で物事に取り組むべきだそう思っていたけれど今(今日?)は少し違うこういった屈辱、憎しみ、悲しみ、怖れの感情をバネに変えた方が大きなエネルギーと負けん気が出てくるような気がするスターウォーズによると、、こういった感情をエネルギーにする事はダークサイド(暗黒)のエネルギーだからいけないそうだ、、でも、僕は所詮生身の人間、、こんな状況中で、心静かに且つ冷静でいられるような「聖者」ではないだとしたら、こういった感情をバネにして心のエネルギーを高めた方が良いような気がする屈辱、憎しみ、悲しみ、怖れといった感情を、「人への」復讐のためにさえ使わなければそれで良いのではないかその代わり僕を襲い、奈落の底に落とした脳出血後の障害という病に対して復讐する気持ちでバネにしようやっぱり、病を憎み、「負けるもんか」と思って生きた方が、僕にとっては這い上がるエネルギーになるような気...
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やっぱり逆境はバネに!・・続き

昨日、屈辱、憎しみ、悲しみ、怖れといったネガティブな感情をバネに「生きるエネルギー」を持つということについて書いたけど、このネガティブな感情をバネに自らのエネルギーに変えた「人?」にあんまり良いイメージは無い・・例えばあのヒトラー・・青年時代に不遇の時期があったそうだ・・20世紀初めにウィーンで不遇の青年時代を過ごした際、約3年間にわたって利用したホームレスのための簡易宿泊施設メルデマンシュトラーセ宿泊所が今年いっぱいで閉鎖されることになり1908年にウィーンに来たヒトラーは美術学校の受験に失敗、所持金も使い果たしたため1910-13年、この宿泊所に身を寄せ、自作の絵はがきなどを売って暮らしたと聞くやっぱり、ネガティブな感情をバネにすると良くないのかなぁ・・そしてもう一人・・これは架空の人物だけど、あのスターウォーズのダースベーダーことアナキンスカイウォーカー・・このストーリーでも若きアナキンスカイウォーカーが母親を殺されるなど、不遇の青年時代を送っている設定になっているその自分不遇の人生に憎しみを抱き、それは周囲への憎悪に変わり、心が暗黒面に堕ち、強い憎しみなどのネガティブな心をエネ...
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僕の智慧

知恵と智慧・・これは僕なりの解釈であり、そして自分のための解釈である人間生きていると様々な「理不尽」に出会う。例えば、人間社会・・社会全般であったり、会社組織であったり、或いは家庭という最小単位の人間関係の中で生きているで、義務を果たさない人がいたとする。そんなとき、、自分が代わりに(何かの問題の解決のため)その義務をしなればならなくなったとき、普通人は憤りを感じるものだでもどんなときでも自己犠牲の覚悟を持ってすれば何事にも怒りも悲しみも憎しみも覚えないなぜなら、「自分を捨てる」ことができているから、そこには自我は存在しなくなるから・・どんな事にも動じず、冷静に対処することができる。人間が苦しみ、迷い、動揺するのは自我の存在と自己保護の本能やそれは何というか自尊心とでもいうのか「こだわり」とでも言えばよいのだろうかそういうもの(たぶん自我)があるから人は人を憎む上述のような場合、義務を果たさない人に対して憎しみの気持ちを持ってしまうそして復讐心から損人に対して、報復や敵対してしまおうとするのものだでも(自我)を捨て去ってしまえば怖いものはない、恐れることも、悲しむことも、人うを憎むこと...
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希望を持つ心に仏や神が宿る

僕は仏や神や先祖の霊などのいわゆる超越的な存在がいるとは全く信じていないこれは僕なりの考えだけど仏や神とは希望を持つ人の心に宿るものであって、決して超越的な存在ではない更に仏とは地獄のような状況の中でも最後まで希望を捨てず、智慧を持とうとする人の心に宿ると思うそれ故、自ら諦め、希望を捨て憎しみや憎悪あるいは怒りと悲しみに浸ろうとする心には神も仏も宿らないそう思っているだから超越的な存在の神や仏や霊魂が人間を守るのではなく希望を持つ自分の心に宿るそんな「神?」や「仏?」が自分自身を救うのだと思うだから 自分自身を救うのは自分自身の心でしかない脳出血による半身麻痺という障害を負って何度も死のうと思ったり正直、(心の中では)「これがウソであってほしい」と何度も神頼みをしながら、自分はどうやったら強くなれ、どうやったらこの障害を抱えて生きていけるのだろうかと考えてきた僕の一つの結論としてそう感じるのだ神や仏先祖の霊などのいわゆる超越的な存在など一切いない自らが希望を持つことができてこそそこに「神?」が宿り「仏?」が宿り「先祖の霊」が宿り自分自身を強くでき、自分自身を救うのだと・・以前も書いたけ...