人間の生き方

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なぜNPO法人でなければならないのか

この一つ前の記事のコメントに「なぜNPO法人でやるのか、長く続けたいならば営利ですべきだ。お金は働きや役立ちに対する対価。営利でやってほしいと思う」というコメントをいただきました。コメント欄で少し返信しましたが、コメント欄の返信では十分書ききれないので記事としてもう一度、なぜNPO法人のかについて書いてみたいと思います。企業は存続することが重要であると言われます。そして企業が「利益の最大化」を目的とすることは善です。そして赤字は悪です経営学でも企業の社会的責任いわゆるCSRでは企業活動が社会へ与える影響に責任を持たなければならないとしています。たとえば企業は顧客にサービスを提供しているので、企業の存続できず倒産してしまうということは顧客に対するサービスがストップしてしまうことです。また従業員を雇用しているという社会的に責任も負っています企業が赤字を出すということは雇用している従業員に給与を払えなくなる可能性が出てきてしまいます。まして倒産するとなると解雇しなければならなくなります。さらには株式会社は基本的に株主へ利益配当しなければなりません。このような意味でも「利益の最大化」を目指すこ...
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可能性への挑戦

僕の左半身麻痺の回復の可能性は有るのだろうか。ほんの10年前までは脳卒中による後遺症の麻痺ついては発症後半年以内に回復しない場合には永遠に回復しないと考えられていたという。つ一度損傷(死滅)した脳細胞は再生は不可能であるという理由からであるしかしこの10年の医学の発展により損傷(死滅)した脳細胞そのものは確かに再生不可能であるが、脳全体に可塑性「脳の再構築」という能力があることが分かってきたそうだ。これは生き残った部分の脳細胞が必要に応じて必要な脳機能を再構築するというものだ。「代償機能」とも言われている。つまりは右手を動かすための脳細胞が死滅したとしても生き残った全く別の脳細胞がリハビリをすることによって死滅した右手を動かす脳細胞の替わりをする能力があるというのだ。ただ残念ながらその可塑性(再構築)という能力がどの程度リハビリをすれば発揮されるのか、あるいはどの程度の期間で再構築されるのかは全く分かっていなようだ。つまり「可能性だけはある」という状態だ。これも結構辛いものだ。たとえば、あなたの場合3年がんばりなさい。そうすれば回復しますと言われれば頑張れるのだが全くわからない状態であ...
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想定外を生き抜く力

今回の震災では政府も含め「想定外」という言葉がたくさん聞かれた。何も国家レベルでなくても個人の人生においても「想定外」という事態は沢山起こるものだ。僕の脳出血にしたって全くの「想定外」だった。人生なんてどんなに熟慮し計画をしたところで人生は想定外の事態や苦境が起こる。自然災害・病気・事故など災難はいつ自分の身に降りかかるかなんて想定出来ないでも「想定外」のことが起こったからといって諦めるわけにはいかないものだ。何としても生き抜くなければならないそんな「想定外」を生き抜く力とは何だろうか日頃の努力による知識や能力だろうか?いや違うどんなに知識や能力を身に付けてもそんな知識や能力が役に立たないような想定外の事態が起こるものだ。それほど世の中は不確実性満ちているものだと思うそんなとき最も大切なことはやはり自分を信じる心と人との「つながり」だと僕は思う。たとえに降りかかった事態に対処する知識や能力が充分になくとも自分を信じる心があれば希望を信じる心があればそれからでも努力できるものではないだろうか。自分を信じ、希望を信じることが出来れば心があれば前向きなることができる、前向きになることができれ...
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薄氷の心と体を支える家族のパワー

昨夜は心の何か限界に達したような気がする。そして心の糸がプツンと切れたような気がする。薄氷の様に薄くもろくなった心がボロボロとくだけてきたような気がするそして一気に気力が萎えてしまった。僕の心の限界が近いのかも・・NPO法人の動きが良い方向に進みだしたとはいえ、家計は火の車。身体は毎日毎日朝から晩まで痛みと痺れに苛まれ闘い続けなければならない。今朝は自分の心を自分なりに分析してみた。何がそんなに辛いのか。心のクラスターチェックかな気力が萎えてしまった原因が心の論理エラーだけであってほしい心自体のクラッシュでないことを祈る。そんな思いで、ひたすら自分の心を見つめ直した。しかしいつものようにうまく回復しない。やはり何か限界にきているような気がする。それは肉体的な痛みと痺れが原因なのか。。それとも、体が不自由になってしまったことへのつらさが実ははまだ残っていてひたすら「もう受け入れることができた」と自分自身に偽っていたのかもしれないその偽りの虚勢がストレスとなり溜まり続け臨界点まで来ていたのかもしれない。そして、、、、、今朝息子の顔を見たとき、「お早う」とお互い声をかけたその瞬間だった。壊れ...
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絆の力

たとえ根拠がなくても自分を信じて自分に自信を持って希望を信じるそうして自信を持つことこそ、苦境の中で希望信じることができ、自分自身の心を前向きにし、意欲を燃やすことができるのだ、そんな意欲からこそた新たな知恵が湧き、前に進めるのだ。そう信じてこの2年間、絶えず希望を信じ前に突き進んできた。でも、こんな気持ちをひとりで持続し続けることはとても難しいものだ。どうしても、日々の生活では痺れや痛みなどの苦痛に加え、お茶碗さえもつことのできなこの体の不自由さに苛立ちを覚えたり、過去を振り返るとこんな体になってしまったことが無性に悲しくなってしまい気持ちが萎えてしまうことが多々ある。どうしても、どんなに努力しても・・・自分一人では心を立ち直らせることが出来ないことがある。そんなとき、人とのつながりの大切さを痛感する。特に最近「絆」の持つ力のすごさを痛感する。僕にとって「絆」とは相手を信じることだけでなく、相手から信じられていると感じることのように思う。簡単に言うと「お互いに信じ合うこと」だ。自分が自分自身を信じ、周りの人たちを信じることはもちろん周りの人から「信じられている」と感じることが大切なよ...
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幸福値

人間にとって幸福とは何だろうか。現代の経済社会においては幸福=GDP(モノの生産量)モノの豊かさとなっているような気がする。これからの世の中は経済において「幸福値」というような指標があっても良いのではないだろうか。僕にとって幸福とは「人とのつながり」だと感じている。これは確信に近いものがある。脳出血で半身麻痺いう障害を負ったことによって僕が初めて悟ったことだ。健常者の頃にできたことは、ほぼ全て出来なくなったといってよい。同時に健常者の頃の「楽しみ」もほぼ全て出来なくなった。スポーツはもちろんのこと「のんびりと散歩をする」とか(歩くということそのものが重労働になってしまった)「ナイフとフォークでステーキを食べる」とか(片手しか使えないのでナイフとフォークは使うことが出来ない)「お茶碗を持ってお茶漬けを食べる」とか日常のほんの些細な楽しみさえ出来なくなった。いくらお金を積まれてもこの出来なくなったことをできるようになることはない。だから僕にとってお金は幸せにつながらない。今僕がもっとも幸せを感じる瞬間は「人とつながっている瞬間」だ。だから「人とのつながりの量」が僕の幸せのバロメーターなのだ...
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苦の根源

自分はなぜこんなに苦しんでいるのか。脳卒中で障害者となってからというもの、会社の倒産、自己破産という苦境や四六時中襲って来くる痛みとの闘いの中で、そんなことを考えざるを得なかった。そして自分だけでなく、人はなぜ苦しむのか。人は生まれてから誰しも病、傷、老い、やがては死を迎える。この業からは誰も逃れることはできない。にもかかわらず、人は皆逃れようとする。そして逃れることができない。だから苦しむのだ。自分だけがその業から逃れようとして結果として他人を傷付けることになったりして、そこに憎しみや怒りや悲しみが生まれる。そしてさらに精神的に苦しまなければならなくなる。ではなぜ人は病、傷、老い、死というものから逃れることができないのかそれは西洋の思想のような神が与えた試練のようなものでもないと僕は思う。神など存在しない。生きとし生けるものにとって病も傷も老いもそして死も自然の摂理なのだ。どんな生き物もやがては病によって老い朽ち果て、やがて死ぬ。このことはことは自然の摂理なのだ。僕が脳出血になったことも自然の摂理の中のひとつなのだ。だから、恐れることも、気に病む必要はないのだ。恐れるから苦しむのだ。...
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有意義に生きるために死を怖れない心が必要

ある方から僕のブログを読んでかなり長文のメッセージをいただきました。その方は僕が死=無であるということに対してそれは悲しいことです。「存在(神?)」を信じてほしいあの世が存在するということを切々と訴えておられました。もちろ善意なのでしょうが、僕にとっては死=無いう考え方は変わりません。なぜ死=無と考えるのか。それは悲しいことなのか?決してそうではありません。あの世が存在したり、死後に魂が残るということの方が悲しいと考えるからです。なぜ悲しいのか?仮にあの世が存在していたとします。そして死後、魂が残っていたとします。そのとき残った魂や死後たどり着いたときの「あの世」からこの世に残っている愛する(愛した)人々とはコミュニケーションは出来ません。どんなに努力しても自分の魂の「存在」を知らせることも出来ず、コミュニケーションも出来ず「つながり」を持つことは出来ません。それは人間にとって究極の孤独だと思うのです。究極の孤独=究極の地獄だと思うのです。これほど苦しい地獄は無いと思います。だから死後は「無」であることの方が僕はずっとずっと幸せだと思うのです。そうなれば「幸せ」ということさえ感じないの...
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天命を知り、天命を享受できるようになりたい

僕が生きる上で起こることは全て僕の天命である。これまでかかった病気も、今の妻と結婚したことも、そして僕が脳出血を起こしたこともさらには今の息子が僕の病気を遺伝で受け継いでしまったことも全ては天命である。天命とは決して神様というようなものから与えられたものではなくこの宇宙の大自然の摂理に従って起こったものだと考え甘んじて享受するという気持ちになるようにしよう。世の中見渡してみるとさまざまな人生を歩んでいる様々な人間が生きている。この世の中に起こっていることは全て自然の摂理に従って起こっていることなのだ。病気になることもいずれは死ぬことも、それに逆らおうとするから苦しむのだ。そして不安になり、焦り、おののき、あげく人を傷つけ、憎み憎しまれ、怒り、悲しむのだ。本当の幸福とは何もお金持ちになることではない本当の幸福とは心の安寧だ。心の安寧こそ最大の幸せだ。心の安寧から知恵も力も、勇気さえ湧くなのだ。そんな心の安寧を得るためにも、自然の摂理に逆らわず、この身に起こることは全て天命と捉え、そして苦境は今よりもっと強くなるための試練と捉え、甘んじて享受できるようになりたいものだ。
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自分の、そして息子の生命力を信じる

生命力を信じる僕は出血性のもやもや病なので、10年以内に再出血する確率が30%とか40%とか非常に高いそうだ。そのことは2年前の発症当時に言われた。するよう言われた瞬間は、本当に目の前に「死」という文字がぶらさがった感じがした。そして正直言って死をを恐れた。怯えに怯えまくっていた。こんな杖突きでしか歩くことが出来ないような体ではちょっと階段を登るだけでも血圧が上がって出血するんじゃないかなどとビクビクしていた。情けない話だけれども本当にビビッてた。もしもそのような精神状態のままだったら今の自分は無かっただろう。ある日僕は父親から「お前は生命力がある人間なんだ。いざというときには助かる人間なんだ」と言われたことを思い出した。実は僕は生まれて3ヶ月で肺炎を患い、死ぬ寸前まで弱ってしまったそうだ。当時の医師からも「もうこれ以上生きるのは難しいでしょう」と私の両親は言われたそうだ。私の母に日記にもそれは残されている「初めての子供は死ぬかもしれない。そう考えるとおむつのウンチでさえ愛おしく感じる」そんな日記が書いてあったのを昔飲ませてもらったことがある。するところが、僕は奇跡的に回復したのだ。生...