精一杯生きるだけ


人間、能力の高い、低いはどうしようもない事もある

でも、能力が低くっても、精一杯頑張る事ができればそれで充分だ

障害というやつを背負ってしまってつくづくそう思う

片麻痺(片手、片足しか使えない)なんかになってしまったら、両手を使えたときには簡単にできた事でも、どんなにあがいたって、できないことがある

こればっかりはどうしようもない

できないものはできないんだから、、、

先日だってある装置にセットされたカメラをたった1cm横にずらし、調整するこができなくって四苦八苦した。
両手さえあれば、1分もかからないような事なのに、、

カメラを据え付けてあるネジを緩めて、横にずらすだけのことなのに、これが簡単にできない
ネジを緩めりゃ左手でカメラを押さえられないから、カメラが落ちてしまう。
仕方ないからネジをゆっくり、ゆっくり、本当にまどろっこしいほどゆっくりと、ほんの少しだけ、緩める
そして、慎重に、慎重に、まどろっこしいほど慎重にカメラが落ちないようほんの少し(1mm弱)ずらす、そしてファインダーで位置を確認し、また慎重に慎重にまどろっこしいほど慎重にカメラが落ちないようにほんの少し(1mm弱)またずらす、慌てるんじゃないと言い聞かせながらね、、
そんな事を繰り返しながら、
やっと1cmほどずらすのに20分近くかかってしまった。

我ながら、自分の身体能力の無さに情けなくなってしまった

でも情けなく思ったところで、どうしようもない、

変に自己嫌悪な陥ったところで、
何も解決しやしない、

それよりも、ゆっくりでもいい

精一杯頑張るしかない

途中で諦めたら、そこで終わりだから、、

こんな些細な事ができなくって必死になっている自分が何だか可笑しいくらいだ。

でも、それでもできなけりゃ仕方ない
じゃないか、

できない事はできないんだし、

それよりも精一杯頑張った事のほうが自分にとっては大切だと思う

それがたとえ、世の中に通用しなくても、仕方がない

できないものはできないんだ。

茶碗だって、どんなにあがいたって

左手では持てやしない

それよりも、その事で気持ちを落ち込ませ、自己嫌悪になってしまう方が、ずっと悪い

だから、精一杯頑張る事ができりゃ

それでいいじゃないか

人生、結果じゃない

どう精一杯生きる事ができたかのほうが自分にとっては大切なのだと思う

何らかの事故や病気など不遇な出来事に巻き込まれ、

結果が出せなかった人生は

無念かもしれない

でも

無念な人生後悔の人生とは違うと思う

たとえ無念でも、後悔のない人生は誰にでも送れる思う

それは能力や身体機能とは全く関係がない

精一杯いきることができたかどうか

それだけだと僕は思う

投稿者プロフィール

代表
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。
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