「当たり前」ってつまり「常識」ということに近い。
世の中で何事も「常識(当たり前)」になってしまうと
思考停止に陥ると思う。
そこから進歩がしない。
改革意欲もなくなる。
かの進化論で有名なダーウィンも言っている。。
「一度正しいとされたことは、(常識)とされてしまい疑うことをしなくなる。これは科学の発展きわめて有害である。」
と・・
最近思う・・
周囲の人(家族も含めて・・)が僕が障害者であることが「当たり前」になってきていると感じる
脳出血で倒れ、半身不随の障害者になった当初は腫れ物を触るかのような対応で
とても気を使ってくれていたように思う。いろんなことを手伝ってくれたように思う
だからと言って気を使ってほしいと言っているのではない。
手伝えといっているのでもない。
それは仕方のないことだ。
特に家族なんて毎日僕と暮らしているのだ。。
そう気ばかり使っていられるものではない。
でも僕は3年以上経つが今でも不自由や痛みが当たり前になることはない。
逆に不自由さをある意味「受け入れて」しまってこれが自分の「当たり前」になってしまってはいけないと思うのだ。
なぜなら「当たり前」じゃないからこそ、
今の僕が「当たり前」じゃない、「元に戻りたい」という気持ちがあるからこそ
リハビリに努力できるからだと思う。
最近杖をついてぎこちなく歩く自分を他人に見られても何とも思わなくなってきている。
はじめの頃は「情けない」という気持ちでいっぱいだったはずなのに・・
最近のそんな自分に危機感を感じるのだ。
話は大きく飛んでしまうけど、原発神話についても同じだったと思う。
原発はCO2を排出しないクリーンで安全な電力・・
東日本大震災前まではそれが「当たり前」であり、常識だったように思う。
今、反原発の人の中にも危機感を抱いていた人がどれだけいたか疑問だ。
そして今度は東北がが瓦礫の山になっていることが「当たり前」になってきてはいないだろうか。
人は「当たり前」なると危機感が薄れる。
僕の住んでいる神戸だって同じだ。
阪神大震災からもう17年・・
被災して親族を亡くした方はともかく、そうでない人たちは神戸で地震が無くて「当たり前」
になってしまっているのではないだろうか。
その証拠にといってはいけないかもしれないけれど、
神戸三宮にはどんどん超高層マンションが建ち始めている・・
「当たり前」って怖い。
少なくとも僕は今の不自由さや痛みが「当たり前」になることはないだろう。
だからこそ日常生活での不自由さや痛みを少しでもなくそうと情報を集め、
知恵を絞り工夫できるのだと思う。
投稿者プロフィール
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京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。