志の持てない人生など存在しない。
なぜなら希望も志もどちらも人の心が持つものだから
最近僕は本当にこんな風に思えるようになってきている。
希望の持てない世の中とはいったいどんな世の中だろうか。
いくら就職活動をしても不採用が続く就職氷河期の
今の日本は希望が持てない世の中なのだろうか。
戦後の焼け野原で全く何もなくなったあの時でさえ日本人は希望を捨てなかったではないか
逆に将来の出世や収入が約束され、健康であり無病息災で
長寿が約束されている世の中なら希望を持てるのだろうか、
志の持てない人生とはどんな人生だろうか。
自分が周囲の人達より能力が劣っているとき
志は持てないのだろうか。
逆に常に自分が優秀で周囲の人たちより能力が優れていれば、
志を持つことができるのだろうか。
どんなに頭が良くてもどんなに素晴らしい家柄の人間でも自分に絶望して
自ら死を選ぶ人はたくさんいるではないか。
世の中の状況や自分の健康状態や経済状態なんて
希望や志をもつために何の関係もないのではないか。
僕自身、会社も失ったし、身体の機能も失ってしまった。
毎日のように身体の半分が常時、痺れと痛みで苦しい
経済状態に関して言えば今でもNPO法人の活動はしているがほとんど無収入である。
それでも僕は大きな希望を持つことができているし、大きな志を持つことができている。
その希望や志のことを考えているときには気持ち燃えてくるのがわかる。
不思議と痺れや痛みさえも和らいでいる。
無我夢中になっている自分が存在している。
こんな僕でさえ希望や志を持つことができているのだから
やっぱり現在の世の中の状態や自分の能力や身体の状態とは関係がないと思う。
未来に希望を持つ・志を持つということは心の働きなのだ。
それさえ持つことができれば、現在が如何に苦境であろうとも、
前向きな心になることができ知恵と勇気が湧き、結果としてそれが行動に変えることができる。
その心さえあれば、どんなに身体が辛くとも行動ができるものだと思う。
僕自身がそうなのだから
身体が半分が猛烈に痛く痺れていても、僕の持っている志のための活動に関する行動は
不思議とできるのだ。長い階段でも必死の思いで上り切れるものだ。
苦しいからこそ希望がほしいのだ。志がほしいのだ。
逆説的にいうと苦しいからこそ人間の心は希望や志を持つことができるのではないか
我ながらそう感じる。
投稿者プロフィール
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京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。