魂が存在すると主張する人は人は生まれる前にも魂が存在していたというのだろうか
だとしたら江戸時代にも僕の魂は存在していたことになる。
それは妙な話ではないか。
その僕の魂は「あの世」にでも存在していたというのだろうか。
その時は悲しみに満ちていたのだろうか。
死の状態が悲しみに包まれているとしたならば死は恐ろしいものなのだろう。
でも江戸時代に存在していた?僕の魂は悲しみなど包まれていなかったと思う。
江戸時代だけではなく、生まれる直前僕は何も感じていなかったと思う。
生まれた瞬間から感じ始めたのではないのか。
よく赤ちゃんは親を選んで生まれてきたなどという人がときどきいる
そんなバカなはずがない。
生まれる前にそんな判断力なぜ備わっているのか
判断力というものは脳の働きではないか
脳が存在しない状態で一体どうやって判断するのか。
脳が存在しないということは何も感じていない状態ではないのか?
つまり死とはそういった生まれる前に戻るだけではないのか。
にも関わらず人間は死を怖れる。
なぜ怖れるのだろうか
そのためには「幸福とは何か」について考える必要があると思う。
幸福とは生きている人間のためにある言葉だと思う。
死後のための言葉ではない。
幸福は人によって訪れる人もいるし訪れない人もいる、
しかし死は誰にでも平等に訪れる、庶民だろうが帝王だろうが
何時か必ず死ななくてはいけないのだ。
その意味で死とは絶対的な宿命である
通常の人間は誰でも死ぬのは恐ろしいと感じている
人間の全ての営みの根底には必ず「死」が潜んでいる。
昔から人は何とか死の恐怖から逃れようと様々な手段を模索してきた。
秦の始皇帝は中原を統一して天下を手に入れた後に求めたものは不老不死だった。
不老不死を求める人々の望みは今でも全く衰える事はない。
現代医学でも不老不死への挑戦は続けられている。
しかし何時までも生きている事が果たして本当に幸福なのだろうか?
私は若し人が不老不死を手に入れたとした、それは最大の不幸を手に入れた事になると思う。
確かに始めは死の恐怖から解放されて喜ぶかもしれない。
しかしそれは生きる苦しみが永遠に続く事を意味するのではないだろうか。
前回の記事でも書きましたが、あの手塚治虫さんの大作「火の鳥」の第二巻目未来編の主人公
は火の鳥によって永遠の命を与えられた。
それは「どんなに苦しくても死ぬことを許されない」ということだったのだ。
自分の友人や愛する人、いや世の中の全ての生き物が死に絶えても自分だけは生きている。
それは究極の孤独の苦しみを意味するのだ。
そんなことが描かれていた。
当時高校生くらいだった僕はその本によって不老不死というものが決して幸福ではないのだと感じた。
でもそれは決し実感ではなかった。
当たり前だ。そんな実感を持てるはずがないのだ。
でも、今回僕は脳出血で半身麻痺なるという体験を通して始めて「実感」したと感じる。
それは死よりも生きることの方が苦しいという実感だ。
そして孤独の実感だ。孤独に生きることの苦しみを実感だ。
障害者になったことによって「誰の役にも立たない人間になってしまった」と感じることは
とても孤独になるものだ。それは精神的には地獄のような苦しみだった。
そんな孤独の苦しみ・・
それは映画「A・I」でも表現されていた。
ここでも主人公は周囲の人(友人や母)がとっくに死んでしまった何千年、何万年という先に
目覚めてしまうのだ。でもそこには誰もいない。
死後、魂が残るということはそういう状態に近いのではないだろうか。
また不老不死というものも同じ状態になってしまうのではないだろうか
だから死後は「無」になることの方が幸福ではないだろうかと思うのだ。
投稿者プロフィール
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京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。