人間について

障害者になって気付いた事(老いるという事)

障害者になって気付いた事がある。。それは「老いる」という事はどういう事かということだ。昔、ある人に聞いたことがある。あなたは車で右折なり、左折なりするときに横断歩道をヨボヨボとゆっくりと渡る老いたおじいさんやおばあさんにイライラしたことはなですか?でもね最もイライラしているのは、実はゆっくりと渡るその老いたおじいさんやおばあさん本人なのですよ若い頃のように思い通りに身体が動かないおばあさんやおじいさんが最も自分に対して苛立ちを持っているのですよ・・とそのことを思い出したときハッとした。。今の自分が正にそうではないか!自分のイメージする通りに身体が動かない。正に横断歩道杖を付きながら、ゆっくりとしか歩けない自分が上述の老人と全く同じ思いをしている自分がいることに気が付いた。老いるということは正にこういう事なのではないかそう思った。僕は脳出血で人より早く老人になったようなものではないかそう思うと、不自由な自分が少し許せると同時に老人の気持ちが分かるような気がした。老いるという事はこういうことなのではないか。。と・・だから頭はボケていなくても、ゆっくりとしか動かない身体は老人になったと思えば...
人間について

花は桜木 人は武士

折角の桜の季節だから近所の桜を撮影してきた。桜はやっぱりいいねぇ・・桜:美しく散るもの薔薇:花弁を残して枯れるもの
人間について

希望も志も心の中

希望も志も心の中痛い身体で希望を持つことは難しい。。苦しい経済環境でも希望を持つことは難しい。。でも希も志も、周囲の環境にも身体の機能や障害とは関係ない。心の中で持つものだ。心の中に希望や志を持つことができたらしめたもの・・目標を達成したのも同じ・・なぜなら本当の希望や志は心を前向きにしてくれる。それは意欲の源泉であり、意欲は知恵の源泉だから・・意欲と知恵さえあれば環境を変えることだってできる。身体の障害も知恵と意欲さえあれば克服できる。「工夫」というやつで・・「工夫」・・これこそが人間にだけ与えられた能力だ。全ての障害は「工夫」で乗り切ることができる。そしてその「工夫」の根源は意欲であり、全ては人の心の問題であり、意欲の問題であるそう信じている。信じているからこそ意欲も持てる。
人間について

脳卒中の後遺症で辛いこと

脳卒中の後遺症で辛いのは、難しいことができなくなるのではなく誰にでもできる簡単な、当たり前のことができなくなることだ。例えば100m13秒で走れていたのが14秒になるのならが我慢できる。でも100m歩くことさえ辛くなるのだ。今まで培った難しい専門的な知識がなくなり高度な仕事ができなくなるのななら仕方ないと思う。でも違うのだ。書類ホッチキス止め封筒の開封そんな簡単なことがキチンとできなくなるのだ。情けないと感じる。幼稚園の子供でもできることができなくなるこれが辛い。日常生活なら、本を読むいとき、片手だからページを一ページずつめくれない。しおりをき入れ替えようとするとページがたくさんめくれてしまい正確に入れることができない。めこんなとき一番悔しい思いをする。。数十ページの企画書はタイプできる頭脳は明晰だなのに。。こんな簡単なことができない すぐにミスをする折角2時間以上かけて企画書を作ってもプリントアウトしてホッチキス止めするのにプリントアウトした書類を揃えている途中に途バラけてしまいそれを再度揃えてホッチキス止めづるのに1時以上かかる。何をやっているんだ!くそっ!イラつくそんなストレスを...
人間について

身体が不自由なのは不便なだけだけど、痛みと痺れにはかなわん

先の記事で身体が不自由なのは不便なだけ、決して不幸ではないと書いたけど・・僕は脳のど真ん中あたり(被殻出血というらしい)で出血したのでそのあたりにある視床という部分の脳細胞が損傷しているらしく、常時感覚障害と痛みと痺れが酷い日によっても酷さは変する。ストレスを感じても痺れが酷くなるようだ。こんなとき脳=心だと実感する。。この痛みと痺れだけは「不便」なだけだから工夫で乗り切るという訳にはいかない。。。痺れがひどいときは左半身が全部辛子明太子になったよう(たぶんこの表現が一番適切かもしれないと思う)なのだ。これにはさすがに参る・・痛みと痺れは心まで蝕んでしまうようだ。酷いときは完全に抑うつ状態・・とても前向きになんてなれない。なんとならんものか・・どんな脳外科医に聞いても「視床痛ですか・・根治はむつかしく難治性です。」とのことまた、「脳卒中(特に視床付近の損傷のとき)による感覚障害の痺れと痛みは感覚を伝える神経細胞の周りにある細胞が、壊れた細胞を修復しようとして過剰な神経放電をおこしてしまい生じるものです。ですので、脳が自分を治そうとすればするほど出てくるのです。だからやっかいです。」との...
人間について

障害は不便なだけ、不幸ではない。

ふとあることに気が付いた。障害は不便なだけ、不幸ではないのだ。不便は工夫すればなんとでもなる。不幸は心の問題。今の自分を不幸だと思う心こそが不幸なのだ。悲しみ、憎しみ、怒り、妬み、そんな心を持つこと自体が不幸なのだたとえ障害を負って工夫次第でやれることはいいくらでもあるやれないことに目を向けるから悲しくなる。やれないことはやれるように工夫すればそれで良いじゃないか。障害による不自由や不便は不幸とは全く別物だ不幸なんてに心の持ち方次第でどうにでもなる。不幸と思う心がきっと本当に不幸なのだろう。意欲・・意欲さえあれば何でも前向きにやれる。そして意欲があるときが心が一番幸せな時だと思う。その意欲を尾持つためには。。志を持つことだと思う。大きな志を持つことが、たとえ今の自分には到底到達不可能なような目標を志であってもそんな大きな志を持つことが工夫を生み、意欲に満ち溢れ心の安寧を得ることができ、幸せを感じることができるのではないか。身体が健常であっても心が不幸であればそれは絶対的不幸だ。だから障害は不便だけれども不幸ではない。意欲さえあれば不便なんて知恵と工夫で何とでもなる。
人間の生き方

全てを失ったことが新しい世界への扉だったのかもしれない

僕は脳出血によって身体機能の一部を失った。僕の場合、自分で会社を経営していたので同時に今までの仕事もすべて失った。。大切な会社も、大切な従業員も全てを失った。サラリーマンと違い、労災も出ず、リハビリである程度杖つきで歩けるようにまで回復したものの、仕事への復帰は不可能という状況だっただって戻る会社が清算してもう無いのだから・・正に無職無収入だった。本当に絶望的な状態だった。とにかくこの身体で一から仕事を探すしかなかった。でも現実はき厳しかった。そもそも50歳前の、、しかも身体障害者を雇用してくれる会社など皆無だった。ただでさえ、リーマンショックの後の不景気である。採用してくれる企業などあるはずもない。過去の職務経歴など何の役にも立たなかった。企業は即戦力が欲しいのだ。身体障害者のような厄介者を採用する余裕などない。。そのことを身に染みて痛感した。正直もうダメだと思った。自分で何かするしかない。といってもこの半身麻痺の身体で何ができるのか。本当に思いつきだった。。。何か社会の役に立つことそう役に立つことをしなければ報酬などもらえるわけがない。既にそこには「仕事をもらう」という概念はなかっ...
人間について

今、目の前にあるやるべきことを粛々と・・

なかなか成果が出ない・・このままで良いのか・・未来はあるのか・・逆に後退してはいまいか・焦る・・なかなか結果が出ないと焦るものである不安も増幅する・・リハビリもそうだ・・毎週リハビリ病院に通って、もう3年・・症状が改善しているようには感じない。さすがに3年してもほとんど目に見えた進展がないと人間諦め気分になるものだ。でもある本によると脳の中では着実に変化の兆しが表れているという。本当なのか・・成果が目に見えないというのは不安を煽るものである。それは仕事にしても同じ・・今、スタートし始めている事業は以下の通り・日本全国の地方自治体にスマートシティの提案と構築サポート・インドへの最新型風力発電技術の輸出導入・アフリカ ギニアへの浄水設備導入プロジェクト・障害者だけで運営するデジタルアーカイブサービス事業の立ち上げ。どれもこの2,3日動きがない。動きがないと焦る気持ちが募る当然お金にもなっていない。資本主義社会のこの世の中、正直言ってお金になってナンボそのための兆しがまだ見えない本当にうまくゆくのだろうか。。こういうときにこそ結果を焦らず、目の前にあるやるべき事を・・いやそのやるべき事さえ分...
独り言

今の僕がすべき事

僕は男である。僕は一家の大黒柱である。たとえ障害者になったとしてもそのことは変わらない。男であれば仕事に打ち込み一家の主であれば家族を養うのが僕の役目である。今の僕は左足は不自由で杖なしでは歩けず、ノロノロとしいるけど僕には健常な右足がある。だから一切歩けないわけではない。左手は全廃で使いものにならないけれど、僕には健常な右手がある。毎日痺れもキツイけど、障害者だからと言って役目を放棄してよいことにはならない。幸い知能に障害はない。健常な右手右足があればできることはある。弱音を吐いている場合ではない。幸いにしてIT系の知識はある。健常な右手さえあれば、遅いけれどこうしてタイピングもできる僕にできること。もう身体を使って足りまわることはできないけれど。。この右手とネットを活用して情報伝達はできる。提案書などの書類も作成できるそれだけできれば十分ではないか。やれることはある。この健常な右手右足を使って社会に役立つことはある。そうして稼ぐ、僕には家族を養う義務がある。これだけは放棄できない。放棄してたまるか。悲しいとか辛いとかそんな軟弱な思いを心に持ってはならぬ。そんなことを考えている余裕は...
人間について

中途障害者になるということ

僕は先天性の障害を持っているわけではなく、ある時期まで45年間ごく普通の健常者だった。だから当たり前にできることは当たり前にできていた。強いて言えば水泳選手だったこともあり多少人よりは体力に自信があった。中途障害とはある日突然そのほとんどすべての機能を失うことを意味する。人が当たり前にできることとは・・例えば・・・まずは走ること。ジョギングなど・・・片手でカバンを持ちながら切符を買う事・片手でお茶碗を持って味噌汁を飲む事・片手で書類を押さえながらホッチキス止めをする・紙飛行機などの折り紙・スリッパをは履くこと・フードコートで片手でドリンクを持ちながらもう一方の手で料理を運ぶこと。 ・階段を手すりを持たずに上り降りすること。・紙幣を数えること。などである少なくとも上述の行動はすべてができなくなりましたほんの昨日まで当たり前にできていたことができなくなる。これが中途障害者の最も精神的にダメージを受けることです。更に僕はいわゆるサラリーマンではなかったので、リハビリによって多少機能回復しても元の職場に戻れることはなかった。だって自分の会社は代表の僕が僕が倒れると同時に倒産して存在しないのだか...