独り言

無垢な子供のパワー

今、家内の実家に家内といっしょに帰ってる息子から携帯にメールがきた。今からポケモンの映画を観に行くというこのメールだけでテンションが急上昇!さあ頑張って今から仕事や!痛みになんか負けてたまるか息子のパワーはすごいiPhoneからの投稿
人間について

何よりも自分を信じる事・・!

僕は、神よりも、守護霊とかいうものよりも、ご先祖様よりも今の自分を信じる自分が必ず回復し幸せな人生を送れるのだと・・そんな自分を信じたい脳は想像や創造という目に見え無い心の「行為」でもその痕跡を残し損傷した脳が可塑的に再構築されると証明されているいうこれはいわゆるイメージトレーニングだと思う自分なら必ずやれるそういう自分を想像するのだそれで本当に脳が再可塑的に構築されるのなら必ずやれる他人が何と言おうとこんな障害者に何ができるのかと思って、「何もできない」と想像してしまったら本当にできなくなるだからこそ僕は自分自身を信じたい神よりも何よりも・・これは別に神や守護霊とかいうものを信仰している人を否定するつもりではないそうではなく人生、自分を信じることのできない人生なんてつまらないと思うからそして何度も書いているが、僕は障害者でも「人の役に立つ人間」でありたいと思うから・・ただそれだけだから何よりも自分を信じたいそして何よりも人生を作るのは、決めるのは、神でもなく、守護霊でもなく人間自身が、僕の人生は僕自身が創るものだと信じているから・・
人間の生き方

生きるって難しいな・・

生きることがこんなに難しく苦しいものとは思ってもいなかったこの先進国の日本でこんなにも苦しむとは・生きるって一筋縄ではいかないな・・この障害によって生まれて初めて死の方が楽だと感じさせてくれた生きることが大切なことは理性ではわかるけど僕は何のために生きているのだろうとはじめて考え去られた生きる意味・・って何だろう生きる意味についてこれほど考えたことはない生きている限り永遠に解けない謎のような気がする愛する人が生きている限り、僕も生きたいただそれだけなのかもしれないそれにしても生きるって難しいな・・
人間について

最も望んでおり、最も怖れている事・・・・

僕が最も望んでおり、でも最も怖れている事・・・・それは死・・死はいけない事・・理性では理解しているけれど僕の3つの苦しみ四六時中左半身全体を襲っている左半身全体の皮を一枚剥がされたような強烈な痺れに耐えている事時折襲う左手足に杭を打ち付けられたような激痛そして身体不自由による屈辱感いつまでこの苦しみに立続けなければならないのか!死はこれら3つの苦しみからの解放でもある死は無であると信じているだから死は苦しみも悲しみや憎しみや怒りなどの地獄のような辛い心も「無」にしてくれる自殺したら地獄で苦しむなどというバカな宗教者もいるけれどあの世などは存在しない死は無である 身体も心(=脳)も全てが無に帰する死はあらゆる生の苦しみからの解放でもあるだから心の片隅のどこか死を望んでいる僕がいる反面、死は人(愛する人)との「つながり」との永遠の切断であるだから死んではいけないと・・・僕の心はいつも揺れているそして、いつ僕の心の片隅に居る死への渇望が表面化するか僕は恐れている
人間について

内から変わることができない日本

ドイツで20年先までにヨーロッパにおいて完全脱原発するという目標が掲げられたそれに引き替え日本・・福島原発事故から大飯原発再稼働まではあれほど大騒ぎしていたのに現在は何事もなかったように静まりかえっている今この瞬間にも大飯原発は稼働しているのだマスコミも喉元過ぎれば熱さを忘れるかのような静けさだしかしヨーロッパにおいては着々と完全脱原発に向けて進んでいる以前にも書いたように最新の再生可能エネルギー活用技術を開発しているベンチャー企業の多くは日本で普及は諦めている 既得権益の壁で前に進めないからだ反原発の機運もこのままだと今年中には消えてしまうような気がする内から変わることができない日本気が付いたら日本以外の世界中が再生可能エネルギーが普及していて日本だけが原発依存という状態にもなりかねないそして将来、いわゆる外圧(世界からの批判等の「黒船来航」)でやっと重い腰を上げ慌てて再生可能エネルギー普及をす進めようとするではないだろうかそういう僕も日本での普及は半分あきらめかけている。だから海外へ日本のベンチャー企業の持つ最新の再生可能エネルギー活用技術をアピールと普及活動をしている一旦外国で認...
人間について

苦しさを乗り越えるのために必要なものは志意外ににない!

今日も朝から苦しい・・左半身全体が激痛と痺れ・・左手は硬直気味で震える・・苦しい・・つらい食事の用意さえする気にならないなぜこんなにまで苦しんでまで生きなければならないのかそれでも生きなければならない理由は?こんなに辛いのに死を選んではいけない理由は?誰か教えてくれ!生きなければならない自分でもわかっているなぜかわからないにも関わらずそれでも生きなければならないのなら僕が生きるために必要なものは志僕が自分で決めた志周囲の人に不可能だと言われても何と言われようが僕は自分の決めた志 障害者になることよってたくさんのもの失った結果生まれた新たな志なんだたかが障害者のくせに・・と思われるかもしれないけれどそれだけが僕の生きる意味絶対に役に立って見せる・・障害者でもその志を強く想うときだけがこの苦しい痛みと痺れ、そして日々不自由による屈辱感に耐えることができるだから絶対に捨てない!この志!僕が生きるために必要な志だから・・この志がなくなったら僕が生きる意味がなくなるからたぶん苦しくて自ら命を絶つだろうから・・
人間の生き方

もう少し生意気に生きて、目指すは「楽勝」でなく、楽生」だ!

健康な人からすると、病人や障害者は「大変だねえ」と思われがちです。障害者なので、その視線はよくわかる仲がよいとか他人とかは関係ない病人や障害者は、大なり小なり人から心遣いを受けることが多いと思う。そんなとき「うん、まあね」とか「大丈夫ですよ」と心ない会話をする人生を、僕はいつまで続けるつもりなのか見た目や症状で絶対にわかるという方でも、他人が見たらわからない病人でも、もとから生意気だった人も、病気になるとしおらしくなるものだもちろんそれは迷惑をかけているとか、心遣いを受けているとかそんなところからくるのだと思うでも、それでよいわけがないのではないか病気を受け止めて生きていくのは、しおらしくなることではない!少し生意気に生きることができるのなら、関わる人にも心配させることが少なくなってくるのではないだろうか気を遣わせないためには、生意気が必要なのではないか病人は少し生意気であるぐらいがちょうどよいのではないかそれによって、僕に関わる人も突っ込みゃすくなるだろうし感情も出せるいわゆる「我がまま」になるというのではない「我がままではない、計画的生意気を実行しよう!」そうすることが、偏見を少な...
人間について

脳卒中で中途身体障害者になるということ

脳卒中で中途身体障害者になるということそれはそれまでの人生で築き上げてきたものを「ある日突然」いきなり奪われるということ・・老いとは全く異質のものであるこの「突然の喪失」の苦しみは(僕も健常者の頃には全く理解できていなかったけど)健常者の方には想像を絶するもの先天性の障害者のことはわからないけれど少なくともそれまでの人生で築き上げてきたそれそれが持つ「誇り」のようなものを奪われるということそれまでごく普通にできていた人間として当たり前に必要な身体機能を失うという障害を負った人は少なくとも一度は死にたいという思いにかられたと思う僕の場合、更に零細だったけれどそれなりに必死でで築き上げてきた会社も喪失したその精神的ダメージは僕には大き過ぎた。。正直、僕自身、これまで幾度も死を考えたそれほどに45年間かけて築き上げてきた「もの」を喪失するということは辛いこと別に20代や30代のような身体に戻りたいとは思わないせめて「人間らしい生活ができるための身体機能」は失いたくなかった
人間について

死よりも苦しい「生きる」って存在する

僕が半身不随という障害者になって知ったことそれは死よりも苦しい「生きる」というものが存在することそして今、この瞬間もその地獄のような「生きる」を必死で生きている人が存在すること決し自分だけが苦しいのではないこと難病といわれる病を背負って今を生きている人が存在する一分一秒苦しみと闘いながら、生きる事よりも、むしろ死を望む人が多く存在するそんな人たちには「死ぬ覚悟で頑張れ」という言葉は通じないそういう人生を生きている人が多く存在することを知っただけでも障害者になった意義があると感じる地獄とはあの世ではなく、この世に存在するのだということを・・
人間について

僕の「生きる意味」は人との(繋がり「絆」)のため・・

僕が生きる意味・・障害者となってから何度も考えさせられたこんな不自由身体になって痛みと痺れに苦しむ毎日人間として当たり前にできることがほとんどできなくなった状態で僕の生きる意味は何なのか・・でも今、生きていて一番生きている実感を感じるの瞬間は人と一緒にいるときだ・・・一人になると何とも言えない恐怖が襲ってくる・・それがなぜなのかわからないけど・身体が不自由でイザというときに自分では何もできない・・という恐怖感かも知れないどちらにしても孤独は僕の心を蝕む様な気がする人と接しているときこそが「生きている」と感じられる「人とのつながり」があるからこそ生きる意味があると思う人とのつながりが全て消えてしまったら・・死んだも同然のような気がするだからこそ「障害者でも人の役に立てる人間でいたい」と思うのかもしれない人の役に立てているあいだは、必要とされ、孤独にならないで済むからと感じるからかもしれないそれが「絆」というものを強くするために必要なことかもしれない