人間について

脳=心=魂

脳=心=魂・・これを書くと宗教やスピリチュアルとかいうものを信仰している人から猛反発されることは分かっているでもそれを証明してくれるあの偉大なインド人脳学者ラマ・チャンドラン博士のYouTube動画見つけたのでここで紹介しようと思う。このラマ・チャンドラン博士の講演動画の中で最もそれを証明しているのは脳のある部分が損傷すると親兄弟さえ認識できなくなるという「カプグラ症候群」という現象だもし、脳とは別に心や魂や霊魂などというものが存在するならば、たとえ脳が損傷しても魂同士で繋がれているはずの親兄弟を認識でいなくなることなんて無いはずではないかだって「信仰する人」は「先祖の霊が自分(あなたを)を守ってくれている」とい言のだから・・でも実際には脳のある一部分が損傷するだけで親兄弟さえ認識できなくなるのだ以下にそのラマ・チャンドラン博士の講演動画を紹介します。ラマ・チャンドラン博士の「心について」の講演-1/2ラマ・チャンドラン博士の「心について」の講演-2/2これを見ると明らかに脳=心=魂であることが分かるこれは僕の「哲学や考え」でもなく僕の「信仰」でもなく脳卒中を起こした僕の視床痛(幻視痛...
独り言

痛みを受け入れる???????

視床痛が幻肢痛の一種だって記事に本来存在しない痛みだから受け入れることで痛みが消えるってコメント頂いた・・でもそれは不可能だ・・そしてこの痛みがどんなものか全く理解してもらえないという事を悟った・・・世の中にはこの痛みに耐えきれず、自殺される患者までいるというのに・・拷問のようなこの痛みを・・「受け入れろ」って・・残酷な言葉だ・・もうこの痛みについて記事に書くのはやめるどんなに頑張って書いても理解してもらえない事がわかったから・・
人間について

今朝の自分にウソも誇張もない

今、痛みが和らいだ自分から今朝の自分を見つめると不思議に思うなぜ、あれほどまでに絶望感に見舞われていたのか・・今となっては自分でもわからない不思議なものであるそんな自分に、あの山本周五郎さんの「落ち葉の隣り」の小説の以下の一節を思い出す。。---------------------------------------------------------------------------「死んじまいたい」と思いつめるそのときの気持には嘘も誇張もない。 ぎりぎりいっぱい、死ぬよりほかにないと思うのだが、そのときが過ぎて しまうと気持もいつか変ってゆき、そんなに思いつめたことがばからしくさえなる。---------------------------------------------------------------------------これはまさに今朝の自分と今の自分だ・・自分から見ても今朝の自分はおかしかったと思う。痛みとは恐ろしいものだ・・人の心をそこまで絶望感に陥れてしまうのだから今思うと・・自分のことでさえ分からないのに他人様に分かってもらおうとする事に無理があると自分でも...
人間について

脳を損傷するということ・・脳死ということ

現金なものである・・今日午前中、痛みと痺れに苦しんでいるときは痛みに耐えていると何のために生きているのかわからないという気持になり痛みに耐えるために生まれてきたのかと思ってしまい・・もう耐えられない我慢ならん・・限界だと思うほどだったでも今はすっかり痛みは遠のいているこの痛み・・「本当は存在しない痛み」なのだ・・脳の感覚を司る部分(視床下部というらしいが損傷しているがゆえ本来痛みは痛む箇所が損傷しているから早く手当しろという「警告」であるはずなのに損傷が存在しないにも関わらず、脳が誤認して勝手に痛みを感じてしまっているのだだから通常のモルヒネなどの鎮静剤は無効だという・・厄介なヤツだ・・痛みは心までも弱気にさせ、蝕んでしまう。自分でもどうにもならないくらい蝕まれる・・脳を損傷するということは全く予期しない苦痛に見舞われるそしてその苦痛は解決方法がない・・痛いといっても痛む箇所には傷も何もなく、腫れているわけでもなく、うっ血しているわけでもないから医師としてもどうしようもない。。この幻覚の痛みといつまで闘わなければならないのか・・たぶん 一生闘い続けなければならないのだろう・・そう思うと...
人間について

人知れず・・

踏み削られ、形を変え、しだいに小さくなってゆくそんな岩があるその岩のどうにもならない運命だどんなにもがいてもその枠からぬけ出ることはできない人間にも同じような運命からぬけ出ることができず、その存在を認められることもなく、生き疲れたうえ、誰にも知られずに死んでゆく者も少なくないだろう僕みたいな人間もそのひとりなのだろう・・それでもいい自分なりに精一杯生きた人生だと思えるなら、、
独り言

限界、、

この2、3日、もう限界かな~って心の奥底で感じてるそりゃそうだよな半身不随の身体で、粋がって、健常者にまけない!なんて言ってたけど、所詮は半身不随の障害者、やれる事には限界があるこんな身体でひとり、一家を支えようなんて事自体無謀だったんだよな、、そろそろ限界かな~って感じてる人間には潮時ってあるんだよそれが、もうそろそろだって感じてる本能的にね自分の人生の潮時、、強がっているのももう限界、、、もう何もかも疲れた、、郵便の封筒の袋詰めさえできないこんな身体、、見かけは五体満足だけど、何の役にも立たないこの身体、もう疲れた、、、疲れた疲れた真っ白になりたいあと16日で50歳の誕生日、人生50年、、かその前に見ておきたい初めて潜った海の底、、映画じゃないけど、そこで貝になりたい真っ白にそして無に、、なりたい
人間の生き方

人生の成功は結果より生き様

人生の成功は結果より生き様だどのような結果を出したかよりもどのように生きたかの方が大切だそう思うように心掛けているなぜならこんな身体で「結果を追いかける」と結果を出すための行動が思うようにできないという苛立ち、の方が先走り、心が焦り、いつまでも結果が出ないことに心が萎えてしまいそうになるからだでも、やっぱり結果を追いかけてしまう自分がいる元零細とはいえ経営者だったという宿命かな・・ビジネスは確かに結果が全てだ政治家なんかもそうかもしれないでも今僕がこの身体で結果を追いかけてしまうと・・結局、(大きな事でなくても、ほんの小さな事さえ)結果が出ず情けない自分に悔情けなくなり、悔しい思いに打ちひしがれ、、気持が沈んでしまうでもそんなときこそ人生の成功は結果より生き様だと自分に叫び言い聞かせているそう思うことによって萎えてしまいそうになる心を僕はいつも必死で支えている
人間について

本当に世の中を支える人々

世の中を支えているのは今、選挙活動で浮かれている(僕には耳触りの良い事を言って浮かれているようにしか見えない)政治家なんかじゃない毎日、寒い中、いや夏なら猛暑の中、日雇いで働いているおっちゃんや兄ちゃん達や中小企業で苦しい経営状況の中で必死で頑張っている人々はないか彼らがいなけりゃビルも建たない道路もできない水道管だって通じない電線だって通らない新しい発明だってできやしない(特に政治家にはね)水。・電気・ガスを思う存分使って生活できるのは過酷な労働条件で働くこういう人たち堪忍や辛抱があるからではないかいつの世でも、真実の国家を支え盛り立てているのは、こういう人たちの堪忍や辛抱・・・人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのではないか
人間の生き方

男(人間)としての生き方って

男、いや、人間にとって死にざまも大事ではあろう、しかし、生きることのほうがさらに大事であり困難で苦しいものだと障害者になってからつくづく感じる死ぬことより、本当に生きることの方が苦しくて辛いでも苦しいからといって、困難だからといって諦めて、死に急ぎをすることが決して潔いとは思わない
人間の生き方

人生王道を歩むのは難しい

王道・・王道を歩みながら生きるのは誠に難しい王道とは僕なりの解釈ではいわゆる正攻法というか、松下幸之助流に言うと「自然の理法」にかなった生き方というものだと思う。王道を歩んでこそ、本物の人生の成功(経済的成功ではなく)を納めることができるのだろう。しかし人生、王道を歩むのは実に難しいと思うややもすると、(様々な「虫の良い事」に心が誘惑され)脇道に逸れがちになるものだ王道とは地道であり、目に見える成果が出難いものだ一見徒労のようにも思えるものだだから、今自分が歩んでいる道が本当にこれで良いのか疑心暗鬼になってしまうそのこに虫の良い誘惑が来るとつい心が揺れ、脇道に入ろうとしてしまう。脇道は近道かもしれないが、その分危険が多くあるものだ。僕自身自分のリハビリについてそう感じる。毎週リハビリを続けてもう4年・・特に目立った回復はないだから気が焦る・・そこへおかしな民間療法やスピリチュアルとかを標ぼうするの輩が近づいてくると心がどうしても揺らいでしまうそれでも心をまっすぐに持ち続け、ただひたすらに王道を行くのは難しい・・先日の中国からのオファーに僕の心は揺らいでしまったもしあのとき、開発者の毅然...