独り言

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清廉潔癖な実業家??

実業家や政治家は清廉潔癖でなければならないのだろうか。今朝僕のブログのコメントに私が下記の別のブログについてコメントがあったこの記事に書いた社長に愛人がいたがどう思うかというような質問だったと思う。申し訳ないけれどもこういった質問についてはこのブログのテーマの本筋ではないので削除させていただきました。この質問を見たとき僕は実業家や政治家は清廉潔癖でなければならないのだろうか。と正直思った。愛人がいるかどうかなどプライベートなことではないか。(これは反論があるかもしれないけど)愛人がいたということはその人にそれだけの魅力があり、甲斐性がある証拠ではないか。事業家として成功するような人間は精神的にも財力にもタフでなければならないと思う。愛人の1人や2人いたって不思議ではないと僕は思う。正直言って愛人を持つためには精神的にもに財力的にも関連なければならないと思う。でもそんなことはどうでも良いじゃないかと思う本当に社会的に貢献する事業をしているのなら多少の悪党でも良いと思うのだがおかしいだろうか。確かに社会的不法行為による社会的損失をを与えるような悪事はいけないと思う。しかしプライベート愛人問...
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逆境を手探りで素直に生き抜く

盲人の人は目が見えないのになかなか怪我をしない。目が見えないから、それだけ人一倍慎重であるからなのだろう。歩くということに対して謙虚なのだろう。ある意味生きることに対して謙虚なのかもしれないむしろ目が見えるほうがものに使ったり、つまずいたりして怪我をする。なまじっか目が見えるため油断するのだろう。歩くということや生き方に放漫にになるのではないだろうか。振り返って自分を見つめ直してみると半身不随となってから、一寸先は闇のような人生になったと思う。そのおかげで生き方に人一倍慎重になったと思う。元気なころよりも数倍生きるということに対して謙虚になったのではないかと思う。毎日が一歩一歩踏みしめるようにして歩く人生になったと感じるそれに比べると昔はずいぶん乱暴な生き方をしていたように思う。逆境を乗り越えるためには、自分に降りかかったその逆境を素直に受け止めることが大切なのではないだろうか。そして逆境を乗り越えるために一歩、一歩ほんの少しずつ、でもしっかりと前に進むことが大切なのではないだろうか。逆境を素直に受け止めることでその逆境を自分に与えられた貴重な試練として考えることができると感じる。試練...
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挑 戦

自分の人生を今振り返ってみれば、我ながら挑戦の人生だったと思う。僕は子供の頃、今回の脳出血の原因となったモヤモヤ病の虚血発作はを起こし、よく左半身が一過性の麻痺に襲われていた。そのせいで小学校などの体育の時間プールは禁止だった。いつも見学だった。子供心に悔しかった・・だから中学生になり虚血発作の頻度が少なくなり水泳の禁止が解かれたらすぐに水泳部に入部した。何としても泳ぐことができるようになりたかったからだ。中学校でも最も厳しいクラブである水泳部に入部したのだ。今まで泳ぎの練習をさせてもらえなかった分人一倍泳ぎはヘタだったにも関わらず・・やらなければならない・・負けてたまるか・・そんな気持ちで練習に励んだ・・夏になると授業のある日は放課後から6000mの練習量をこなした。今から思うと本当によく練習に堪えたと思う。現代はあの北島でも1日の練習量は2000mくらいだと聞く。あの頃の練習は現在のような科学的な練習ではなく、いわゆるスパルタだった。現代はあの北島でも1日の練習量は2000mくらいだと聞く。僕の中学生の時は夏休みになると午前と午後の練習を合わせて2万メートル近い練習量をこなした。僕...
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ネガティブな孤独とポジティブな孤独

僕は今、ポジティブな孤独に苛まれているポジティブな孤独?なんだ一体それ?と思われる方もいるでしょう。当然です!僕が作った造語だから・・誰も知るわけがない・・笑)僕は孤独にはネガティブな孤独とポジティブな孤独の二つがあると思っている。これは僕の経験上から感じていることだ。ネガティブな孤独とは僕が3年前脳出血で半身不随となったときまともに動くこともできず、「自分はもう何の役にも立たない人間になってしまった」と感じながら1日中ベッドに横たわっていたときに感じた強烈な孤独である。「自分はもう何の役にも立たない人間になってしまった」と感じることは生きて行く上で「人とのつながり」を断たれてしまったという感に襲われるものだ。実に孤独だった。こんなに孤独なら生きている意味がないと感じた。死んでいるのも同然だと思った。本当に死にたいと思っていた。こんな孤独な「ネガティブな孤独」であると思う。でも今は何とか「人とのつながり」を持ち始め「ネガティブな孤独」からはかなり脱却できていると思う。でも今、孤独から脱却するために自分の心の中に持った希望と志が逆に僕を孤独にすることがある。なぜなら今僕が持っている希望や...
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僕の人生最大の挑戦

いよいよメガソーラーによる再生可能エネルギー発電事業に海外からの投資を呼び込むためのファンド創設が動き出した。ファンド組成会社が動き始めてくれた。このファンド創設が成功すれば、世界の投資家の目は日本の再生可能エネルギー技術に向かうと信じている結果として技術立国の日本の経済が復活することを願っている。ファンド対象事業の概要は以前記事にした以下のようなものだ。総理大臣交代し、国家財政の再建策として増税路線を走りだそうとしているが僕は間違っていると思う。経済再生無くして増税することは非常に危険であると感じている。だからこそこのファンド創設は何が何でも成功して欲しい。半身麻痺いう障害を負ってからというものこんな障害者でも世の中に役に立つことができるのかということを自分に問い続け、痺れに痛む動かない身体ででき得る限りのことをやってきた結果の集大成だ。障害者となってからも無職無収入の状態でわずかながらの預貯金を切り崩しながら進めてきたことだ。ここで失敗すれば資金も底を尽きるからどこかに障害者雇用してくれる企業に就職しなければならないことになる。そうなったらこの僕だけのプロジェクトも終わるかも知れな...
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覚悟と不安

ここのところ僕にとって「覚悟」は何か、ということをいろいろ考えている。覚悟がないと不安に襲われるそれは分かるでは一体「覚悟」っていったい何なんだ。その結論が僕の心の中でやっと出たような気がする。不安に襲われるの原因は「策」がないからだ。つまり最悪の事態を想定したとき、対処できる「策」がないからだ。「万策尽きた」という言葉があるが、そもそも本当に万策が尽きることなどがあるのだろうか。そう考えたとき僕にとっての「覚悟」の意味が分かったような気がした。万策が尽きることなどないのだ。なぜなら最後の策は「死」だからだ。「死ぬこと」さえも策の一つであると思うのだ。昔、侍の勝ち負けは技の良し悪しではなく、自分の命を盾できるかどうかという度胸の有無が勝負を決めると聞いたことがある。つまり自分の命を盾するという「策」を持つことができるかどうかということではないだろうか。その「策」を選択するという選択肢を持つことができないから不安になるのだ。自分にとって絶対選択したくない「策」つまりその「策」を選択するというオプションを持つことこそが「覚悟」なのだということが分かった。このことが分かって僕の中のモヤモヤと...
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自分で限界を作らない限り

自分で限界を作らない限り限界なんて無いんだよね。限界は自分の心が勝手に作るものだ。自分で勝手に限界だと思い込んで自らの命を絶つなんて愚の骨頂だ。自分の心が限界じゃないとおもえば限界なんて存在しない。そして命を楯にする気概があれば、万策尽きることなんて無い!今、この瞬間僕はそう自分に言い聞かせているiPhoneからの投稿
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僕は何のために生きているのか。何のために生きるべきなのか。

何のために生きているのか。僕は何のために生きているのだろう。またそんなことを考えている。3連休という休みがあったからだと思う。「あなたは何のために生きているのですか」この問いかけに答えられる人は意外と少ないのではないのではないだろうかと思う。事業に成功するため?大金持ちになりたいため?オリンピックで優勝するため?そんないろいろな答えが返ってきそうな気がする。でもそれはその瞬間の目標のようなものであって「何のために生きているか」という質問の答えにはなっていないと思う。でも僕は今、はっきりと答えることができる。僕と「人との「つながり」を持つために生まれ生きているのだ」と・・「人とのつながり」を持たなくなってしまったら死んでも同然だと思うからだ。この3連休、僕は人との「つながり」がほとんどなかったように思う息子はどこかに遊びに行きたそうにしているけれどどこにも連れて行ってあげられなかった。台風が近づき雨模様だったということもあるけれど昔の僕だったら屋内プールにでも連れていってあげることが出来ただろう僕自身が何を楽しんでいるのかからない。とにかく体を動かして楽しむことは一切できない。たかが基本...
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終わりのない苦痛

脳卒中の後遺症の苦痛というものと他の病気との最大の違いは「終わりがない」ということである大抵の病気はどんなに苦しくとも治癒すればそこで終わりである。痛みなどの苦痛も終わりである。骨折などしたとき足が不自由になったとしても、治癒すれば歩けるようになる。つまり「終わりがある」のである。しかし僕の苦痛には「終わりがない」のだ。この3年間というもの朝起きてから左半身の痺れが始まり、そして強烈な痛みへと変化する。それが24時間続く。さすがに睡眠中は和らいでいるようだけれど。朝起きるとまた始まるのだ。こんなことが毎日、もう3年間続いている。終わりがないのだ。いつまで続くのだろうか・永遠に続くのだろうかそんなことを考えると気が変になりそうになる。僕にとって痛みの終わりは死であると覚悟している。体の不自由さの辛さの終わりも死であると覚悟している。だから死を怖れることは無い。むしろ臨んでしまうときもある。この辛さから解放されるなら・・・とでもこんな身体ではあるけれど、「その時」が来るまでになにか人に役に立つこと一つは成し遂げたい。そんな思いだけが僕を生かしているような気がする。そんなものが僕の志の源泉で...
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終わりのない闘い

脳卒中は僕に後遺症という形で僕に終わりのない闘いを与えた。この身体の不自由さは現代医学ではいつまで続くか分からない。誰にも、どんな医者にもわからない。たいていの病には終わりがある。病の終わりは痛みの終わりであり、苦痛の終わりである。しかし僕には終わりがない。苦痛の終わりは死であると思っているこれは果てしない闘いである。高い高い、いつ乗り越えられるかどうかわからないような壁が僕の前に立ちはだかっている。どんなに高い壁であろうとその壁が高ければ高いほど、僕の決意が強くなるだけだ。僕も生身の人間だから、突然高い壁が立ちはだかれば、弱気になってしまう。しかしその弱気の後には必ずと言って良いほど決意がみなぎってくるのだ。本当に不思議なものである。もうダメか・・と感じてギブアップしそうになってしまう瞬間があるのだけれど、そのどん底の精神状態の次に来るのは決意なのである。この決意が心の中に芽生えることができればしめたものである。そうなると、もう何が起こっても平常心が崩れることは無い。人間の心で意外と強いものだ。僕の終わりなき闘い。次から次へと押し寄せて来る高い壁よ。どこからでもかかって来い。お前が高...