人間について

人間について

それでも生きなければならないのか。

僕は、一体誰のために、何のために生きているのだろう。これまでこんな障害者でも、少しでも人の役に立つ人間でありたいと思い、頑張り続けた。でも僕は一体誰のために、なんのためにこんなに頑張っているのだろう。頑張っても誰にも感謝されない。感謝されないことが辛いのか?誰のために生きているのかわからなくなってきた。自分のために生きるのか?自分のために生きるとは?自分が幸福であるために生きるとはいったいどういうことだろう最近そんなことがわからなくなってきたように感じる。自分にとって幸福とはお金でも、地位でも、名誉でもない。やっぱり「人とのつながり」だと思う。互いに笑い合い、お互いに助け合い生きていく。そのことによって喜びは共有し倍増する悲しみも共有し、悲しみは半減するそんなことが最も幸せなことではないだろうか。そう思っていたけれど・・・なぜだか今朝はむなしい。。そんなことを感じることが出来なくなったとき、どうすれば良いのだろうか。いくらがんばっても誰にも感謝されることなく、どんなに苦しんでいても誰にも慰めてもらえるわけでもなく、ただ一人ここらえ続ける。それでも生きなければならないか。それでも生きなけ...
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疑う心から不安が始まり夢や希望まで失われてゆく

自分を信じることができない他人を信じることができないこんな疑う心から不安が始まるこのところしばらくそんな状態が続いていたように思う。「疑う心」も「うつ」のときの心のように一旦疑い始めると、疑いが疑いを生み出し疑心暗鬼になってしまう。そして、そのうちに自分さえ疑うようになってしまう。結果として、自信喪失状態に陥ってしまい希望も何も持てなくなってしまう。そもそも、疑う心に根拠なんてないものではないかあの芥川龍之介も自らの命を断った理由が「漠然とした不安」だと言われている。「漠然とした不安」この心は人間にとって非常にやっかいなものではないか。だって「漠然としている」から不安の原因をつかむことが出来ない。原因が分からないから解決も出来ない。だからどんどん苦しくなって心の負のスパイラルに陥るでも・・・不安に根拠がないのなら、信じる心にも根拠なんて必要ないではないのか!どうせ根拠がないなら、信じる方を選んだ方が得ではないか!そんなことを考えて、少し思い直して自分自身も周りの人たちも信じてみようと思ったら急に心が軽くなってきた。そんな気持ちで、自分の状況を見てみるとなんと希望がいっぱいではないか!九...
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希望を持つために最も必要だったこと

希望を持つために最も必要なものは意欲だと思う。そして自分に対する「自信」ではないかと思う。それは決して自己を過大評価するのではなく、「自分を信じる」ということと思う。根拠なき自信でも脳(人の心)は、人間は、自信を持つものだと思う。から信じるということはとても大切なことだと思う。なぜなら信じることができると、たとえ根拠がなくても心が前向きになるものだ。心を前向きになる結果として意欲を持つことができる。そもそも世の中自体不確実性に満ちている。そのなかでも人間は生きている。明日、自分は死なないなんていうことは絶対にわからない。皆何の根拠もなく、明日、自分は死なないと信じている。人間は生きている間、様々な節目、節目があり、そして日々さまざまな判断をしている。これはコンピュータなどには出来ない判断だ。なぜなら、日々の生活でさまざまな判断をする時必ずしも判断に必要な情報は全て整っているわけではないから。ではなぜ人間は判断が出来るのか。それは人間の持つ感情というももが、心というものは大きな役割を果たしているのではないか。自分はどういう学校に入ればよいのか。何を専攻すればよいのか。どんな仕事につけばよ...
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現実を乗り越えるということ。人間の本性を乗り越えるということ。

現実を乗り越えるということ。人間の本性を乗り越えるということ。よく文学と哲学を比較して、文学は人間の真実の姿を描き表しているといわれる。たとえばシェークスピアなどの文学などは、日ごろどんなに善人を装っている人でも、いざというとき、つまり究極の苦境の際には人間の醜い本性を表すものだというようなことを表現している。アンデルセンの童話などにしてもそうだ。原文には醜い人間の本性が描かれている。だから文学者は文学こそ人間の本質を表す、すばらしいものだという。哲学は人間の本質を無視している実現出来もしない理想にすぎないと・・でも僕は思う。確かに人間にはいわゆる動物として持っている本能的欲求というもの思っていると思う。でも、その本能的欲求というものを乗り越えようとすることこそ、人間であるゆえんではないかと思う。釈迦にしても人間のもつ一切の煩悩(我欲?本能的な要求?)を捨てることによって涅槃の境地を目指そうとた。現実的に考えると、人間の煩悩を全て捨てるなどということは不可能なのかもしれない。でも・・それを乗り越えようとする心、その努力こそが大切なのではないか。美しいのではないかと思う。(間違った理解か...
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死に対する怖れ

僕は脳出血を起こし、生死をさまよい障害者になってから、健常者の頃より死に対する恐れが少なくなった。ほとんどなくなったといってよいだろう。なぜ死を恐れるのか。僕は健常者の頃、死ぬことでいちばん恐ろしいことは「別れ」だと思っていた。それは「人との別れ」だけではなく、この世にある全ての物との別れだ。見慣れた景色、住み慣れた家、使い慣れた道具、死とはそんな僕とつながりのあったモノとの別れをしなければならないと感じ、その「別れ」が怖かった。でも今は違う。「死とは無に戻ること」だと考えるようになったからだ。この世の全てのものは「無」から生まれた。そして死とは「無」どれだけのことなのだ。「無」になるということは「魂」さえも残らないのだ。そもそも「魂」なんて存在しない。心=脳だと考えた場合、脳が損傷あるいは破壊されたとき心も消滅してしまうのだ。魂も消滅してしまうのだ。 「別れ」が怖いと思うのは生きている証拠だ。魂が存在する証拠だ。魂が消滅し、心が消滅してしまえば、「怖れ」さえも無くなってしまう。無になれば苦しむことさえなくなってしまう。僕は死んでから「魂」などというものが残る方が苦しむと思うのだ。死ん...
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心に義足は付かない

肢体が不自由になっても足が不自由になっても、何とか義足で生きていける手が不自由になって何とか義手や工夫と知恵で生きていける。でも・・心が壊れてしまったら、、心には、魂には、義手も義足もつけることはできない。魂が壊れてっしまったら心が壊れてしまったら意欲もなくなり、知恵も工夫もでない。そうなったら人間は終わりだしかし、心さえ、魂さえ、壊れなければ、たとえ手が不自由でも、足が不自由でも、意欲を燃やすことができ、意欲が知恵と工夫を生み出し、再び力強く生きていける。
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人は思うがままにならぬ事で苦しむ

人は思うがままにならぬことを思うがままにしようとして、思うがままにならない事で苦しむ。相手を思うがままにしようとして、自分の子供を思うがままにしようとして、自分自身を思うがままにしようとして、思うがままにならないがゆえに人を傷付つけてしまったり、人を憎んだり、怒ったり、自分を悲しんだり、更には「病、老い、死」までも思うがままにしようとして、決して逃れられないにも関わらず、逃れようとして逃れられないから苦しむ。自然の摂理に従わないから苦しむ。人は自然の摂理までも思うがままにしようとしているのではないか。だから苦しむのではないか。確かに死も病も誰にでも訪れる自然の摂理といえど、これらは人間にとって受け入れ難いものである。しかしそれらを自然の摂理として素直に受け止めることができれば、本当の心の平安が訪れるのではないだろうか。今を有意義に生きることができるのではないか。
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空気のように生きる

僕は今でも1日24時間「障害者」であることを思い知らされている。でも周囲の人は多分そうでは無いのだろう。僕も健常者のときはそうだったのだが、体の不自由な人や重い病気で苦しんでいる人を見ても大変だな、、可哀想だなとその人のことを「思いやる」気持ちになるのはその瞬間だけだった。でも、いつの間にかその人のことは忘れている。その人は多分その瞬間だけでなく、僕は忘れているときもずっとずっと苦しんでいたに違いないのだ。平たく言うと「所詮は他人事」なのだ。一緒に生活でもしない限り、思いを寄せ続けることはない。でもその人は僕が見えないだけで、存在し苦しみ続けているのだ。決して46時中思いやってほしいなどと思っているわけではないのだが(そんなこと不可能だとわかっている)最近何か「忘れられている」感を感じてしまうのだ。「忘れられている感じ」=つまり自分の存在が消えている感じ妻や息子でさえそう感じる僕を心配してくれている両親でさえもそう感じる僕が半身麻痺なった当初、周囲はでも気遣ってくれた。でもそれは「当初」だけだった。そしてだんだんと「僕は障害者であることが当たり前」という感じになってきているような気がす...
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心の限界

もう我慢出来ない!もう限界だ!本当に死んでしまいたいこの2年半そんなことを思い何度も自死を考えた。でも僕は今、自死などすることなく生きている。あの「もう限界だ」という感じは何だったのだろう。。そのときは本当にもう限界だと感じていたと思う。今思うとその「限界」とは本当に限界ではなかったんだと感じる。自分が限界だと思うから限界だったのだ。ただそれだけのこと・・・心の限界なんて存在しないのではないだろうか。。限界だと思う心が限界を作ってしまっているのではないだろうか。自分で自分の限界を決め付けてしまっているのではないだろうか。そんな状況を乗り越えられた秘訣は目の前に、自分に起こっている現象(限界だと感じる、辛いと感じる現象)を何かのきっかけで別の角度から捉えることができたのではないかと感じている。そんなときに限って、一つの道しか見えていないものだと思う。その一つの道しか見えないから八方塞がりを感じてしまっているだけなのだろう。富士山は西からでも、東からでも登ることができる西の道が悪ければ、東から飲むればよい、時と場合に応じて自分に合った道を自在に使い分ければよいのだ。にも関わらずなぜか人は一...
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命を繋ぐということ

生きとし生きるものは全て今の自分の命を未来に繋げることを最大の目的としている。命を次の世代に引き継ぐことが最大の目的なのだ。どんな小さい動物でも親は子が生きることを守ろうとする。命を繋ぐためだ。それは人間も同じだと思う。以前聞いたことがある話ですが、太平洋戦争末期、日本の神風特攻隊で死を覚悟した男達が出撃の際、その男達のなかで自分が死ぬことに対して最も悔やんだ兵士は妻や子供を残してきた兵士ではないむしろ子供はできていない兵士の方は悔やんだそうだ。それは自分が生きた証をこの世に残すことが出来ないという悔しさだったそうだそれは命を未来につなぐという本能的な「生きる使命?」を達成出来ないことに対する無念の気持ちだったのだろう。虫などの小さな生き物は次の世代に命をつなぐために、次の世代が生き延びるために、できるだけたくさんの子供(卵)を生む。それは弱者である小動物が未来に命を引き継ぐために、天敵に襲われない子供を少しでも残すためだ。人間以外の動物のほとんどは遺伝情報によって生き方を伝える。だから生まれた段階で生き方「生き延びる術」が備わっている。しかし人間は子供が少ない上に遺伝情報だけでは生き...