よく文学と哲学を比較して、
文学は人間の真実の姿を描き表しているといわれる。
たとえばシェークスピアなどの文学などは、日ごろどんなに善人を装っている人でも、
いざというとき、つまり究極の苦境の際には人間の醜い本性を表すものだというようなことを表現している。
アンデルセンの童話などにしてもそうだ。原文には醜い人間の本性が描かれている。
だから文学者は文学こそ人間の本質を表す、すばらしいものだという。
哲学は人間の本質を無視している実現出来もしない理想にすぎないと・・
でも僕は思う。
確かに人間にはいわゆる動物として持っている本能的欲求というもの思っていると思う。
でも、その本能的欲求というものを乗り越えようとすることこそ、人間であるゆえんではないかと思う。
釈迦にしても人間のもつ一切の煩悩(我欲?本能的な要求?)を捨てることによって涅槃の境地を目指そうとた。
現実的に考えると、人間の煩悩を全て捨てるなどということは不可能なのかもしれない。
でも・・
それを乗り越えようとする心、その努力こそが大切なのではないか。美しいのではないかと思う。
(間違った理解かもしれませんが)西洋文化「キリスト教文化」は人間はもともと邪悪なものであり罪を犯すものである。だから罪を犯してしまう(本能的欲求によって行動してしまう)ことは仕方のないことだ。だから神に懺悔しなさい。そうすれば許される。
だから神に許しを請うという文化があるように感じる。
もしそうだとしたら、それでよいのだろうか。
到底で乗り越えることが出来ない自我を乗り越えようと努力することこそが大切なのではないであろうか。
日本の武士道(武士道だけではない日本の文化全体)の「恥」という概念は、
人間の本能や本性のままに生きること恥とする文化だと思う。
そして必死で(現実的には決して乗り越えられないのかもしれない)人間の本能や本性に
打ち勝とうとする姿勢こそが美しいとされる文化だと思う。
そこには人間の魂の本質は善であるという思想が貫かれているように思う。
だから人間は自分の心を信じて、我欲(人間の本性?)に闘いを挑むことが大切ではないのだろうか。
そんな姿勢こそが、苦境を乗り越える力となるのではないだろうか。
文学のように人間と本質を現実として捉え「受け入れる」ことだけでつまらないではないか。
そんな現実を乗り越えるということ。
決して乗り越えることなど出来ないかもしれないけれど、その「人間の本性(現実?)」を乗り越えよ
うとする生き方にこそ人間として生きる意味があるのではないか
投稿者プロフィール

- 代表
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京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。