人間の生き方

人間の生き方

根拠のない希望、自信、やる気が道を開く

希望を持つためにも自信を持つためにもやる気を出し、前向きになるためにも根拠なんて必要ない環境さえ必要ないと思う僕はこの10月に入ってからなぜか、ひどく落ち込んでいた気持ちが塞いでいたせいか左半身の痺れや痛みも酷く息子の運動会にも行けなかったくらいだ当初、台風が近付いていたせいだと思っていたでも、台風が過ぎ去った後も、落ち込みは治らなかった同様に痺れや痛みも酷いままだったそれが、、昨日の午後、何の前触れもなく突然、負けるもんか!という気持ちが湧き上がってきた本当に何の前触れもなく、、それからは全てがV字回復だったそこには何の根拠もなかったそう!希望も志も、自信も、そしてやる気も根拠なんて必要ないんだ明日、自分が交通事故で死ぬかもしれないなどと思っている人はほとんどいないだろう皆、明日も生きていると信じている交通事故で死なないという希望を持っているそこにも、何の根拠もないではないか希望を持つから、心が前向きになり心が前向きになるから負けるもんか!と思える負けるもんか!と思えるから知恵が湧く知恵が湧くから物事がうまく進むそこには自分の置かれている現在の環境や状況なんて関係ないどんなに辛い状況...
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行動する前に考え抜く・・

僕は今・・何事においても何か行動する前には考えに考え、考え抜くようにしているなぜなら今の僕の身体では咄嗟のときに「機転」が効かないから・・機敏に環境に合わせて対応できない当初、これには参った・・「何か起こっても何もできなくなった」と感じた・・行動することに怯えていたような気がするでも今は違う・・ありとあらゆる起こりうる事を想定しておくそしてそのときに今の自分が対応できるようにするための準備をしておくそうすれば怯える必要はない対応しなければならない想定できることを考えに考え抜くのだもちろん予知能力があるわけではないのだから起こる事全てを想定できるわけではない想定したことが起きなければ起きないに越した事はないでも7割型は想定できるそうすれば想定したことがおきてもこの身体でも慌てる事はない。行動する前に考え抜く・・僕にとってはとっても大切なこと人間なんだから・・考えなきゃ
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意志と意欲ありき

身体が不自由で辛いとき身体が痺れ、疼痛の痛みが辛いとき心が折れそうになる・・生きているのさえ嫌になるそんなとき、僕は自分の意志を確認にする僕の意志とは・・僕のやりたいこと僕にとってそれは障害者でも役に立つ人間でありたいということそうではないのか自問自答するその自分の意志を再確認できたとき、意志は意欲に変る意欲に変ればもうしめたもの・・意欲さえあれば、どんなに辛い事でも耐えられるから・・僕にとってすべては自分の意志でありその意志の確認であり、そこから生まれる意欲が全てである意欲があれば知恵も湧く知恵さえあれば、半身動かなくても何とかなるものだそして意欲が痛みや痺れさえも癒してくれるように思う
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夢や希望も幸せも人の自らの心の中で作るもの

今日 次期アメリカ大統領選に向けたオバマ大統領と共和党のロムニー氏の第2回目のテレビ討論会の様子を見ていた。オバマ大統領は「米製造業の雇用を再び創出する」と約束し、ロムニー氏は「豊な未来を保証する」と約束していた・・でも、二人とも残念ながら、あのケネディ大統領就任演説で有名な「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」という訴えを超えるものではなかったように思う二人とも「私が大統領になれば政府が国民のために何かをしてあげる、或いは「私が大統領になれば政府が状況を変えてあげる」というものであったように思う僕は国民への「媚び」だと思ったよく日本の政治家も「希望が持てる社会にしたい・しなければならない」というような言葉を使うでも僕は不思議に思う「希望が持てる社会」ってどんな社会?「希望が持てる世の中」ってどんな世の中?僕は思う希望や夢などんな状況であれ、どんな世の中であれ持てるのではないのかなぜなら、希望や夢とは周囲の状況や或いは僕のような身体の状態とは関係なく心の中で持つものと思うから・・現に日本は終戦後の以下のような写真の廃墟の中で...
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精一杯生きるしかない

なんだかんだと言ったって吠えてみたところで、もがいてみたところで、こんな身体でできる事はたかが知れているそんな事は当の自分が一番分かっているそれでも心の中では吠え続けるだろうそしてもがき続けるだろうやっぱり、父親だし、夫だから強い、頼れる父親を、夫を生きている限りは、せめて演じ続けたいから精一杯この身体で頑張るしかないから
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希望作りをはじめよう

もし、この僕のブログを読んでくれている若い人たちの中で「希望」を持てない人がいるのなら或いは「希望」を持てないでいる人がいたら僕は言いたい心の中に希望作りを始めよう・・となぜなら希望とは僕なりの言い方ですが希望とは「心の中に志を持つこと」だと思ってます志って難しい言い方のようにも思うけどもっと簡単に言うと自分が「やりたいこと」だと思ってます。「やりたいこと」ってたとえ病気のときでも僕のように身体が不自由でも心の中に持てるはず・・よく「希望の持てない世の中」なんて言う言い方をしますがそんな「希望の持てない世の中や状況」や或いは「希望の持てない身体の状況」っなんて存在しないと僕は思うどんなに苦しい状況でも、苦しい身体でも心の中に「やりたいこと」って心の中に持つことはできるはずだし持つのも自由僕の障害者になってしまったという狭い経験からでですが心の中に「本当にやりたいこと」を見つけたときそして作れたとき、僕は心に希望を持てたときだと思う心の中に「本当にやりたいこと」ができたとき次にできる(起きる)のは自分自身の心から発生する「やるべきこと」或いは「やらなければならないこと」それ決し他人から押...
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今の僕の心にしみる言葉・・

今の僕の心にしみる言葉・・山本周五郎さんの小説に出てくる以下の言葉・・かな--人聞はみな同じような状態にいるんだ、まぬがれることのできない生と死のあいだで、そのぎりぎりのところで生きているんだ----人間はもともと弱いものだし、カのあらわれは一様ではない、鉄石の強さも強さ、雪に折れない竹の援みも強さだ、ここで剛毅心をふるい起こすよりは、この虚しいもの淋しさを認めるほうが、おれにとっては強さであるかもしれない---
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諸行無常、、元には戻れない

最近、息子がマラソン大会のために朝から走っている、、僕からみると頼りないすぐにヘバるのかすぐに帰って来てしまう僕はここ2、3日の朝の冷え込みに身体が着いていかず、痙性が強くなっている身体を元に戻すのに精一杯、、こんなときもし、僕が、健常者だったら「もし、」は考えちゃいけないって分かっているけれど、もし、昔のように元気だったら一緒に並走して、応援しながら走り方なんかアドバイスしてあげられるのに、、って思ってしまう考えても無駄、、諸行無常、時間は戻らないって分かっているけれど、、考えてしまう、、
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『おのれ』を棄てる

昔、、侍とは・・「『おのれ』を棄てたものだ」そして「さむらいには生死ともに自分というものはない」と言われたそこで・・僕自身、「『おのれ』がある」から障害に対して悲しみ、悔やみ、苦しむそして自暴自棄になる瞬間があると感じている障害を負ってからもう4年も経つけど、まだ苦しいときがある。『おのれ』とは「自我」だと思う「自我」・・これほど困ったものはないと僕は思う「自我」があるから苦しむ「自我」さえなければ、物理的な「痛み」さえも耐えることができると僕は思っているなぜなら、僕の場合、心に緊張や不安が走るだけで、麻痺側の痙性が強まり、(おそらく自律神経のせいだろう)痛む、痺れるこんな麻痺の疼痛の経験からも精神(心)は痛みと連動しているとつくづく感じている「心が緊張し、不安になる・・」これは「自我」があるからだ『おのれ』があるからだ何も精神論だけで『おのれ』を棄てることが良いと思っているわけではない物事の判断の客観性も失わせると思う「自我」というものは「こだわり」や「思い入れ」といったような心を生む「こだわり」や「思い入れ」は客観性を失わせる大きな原因と思う「こだわり」や「思い入れ」は主観的で、冷...
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死ぬことよりも、、、

愛するひとのために命を厭わない自ら進んで死ぬ、、或いは昔なら、主君のために、国家のために、命を投げ出す、、そういう死は犠牲の精神の美しさはあるかもしれないでも、やっぱり与えられた人生を生き抜く事にははるかに及ばないと思う障害者になって初めてその事がよく分かったような気がする死よりも与えられた運命を生き抜く事の方がはるかに難しいってこと、、この4年間、、障害による身体の不自由障害による日々の身体を襲う激痛と痺れ社会生活において日々何度も味わう屈辱感、、生きる事の方が死ぬことよりも、はるかに難しく、苦しいだからこそ、僕にとって与えられたこの運命を生き抜く事に大きな意味があると思うだからこそ最後まで生き抜きたい