人間の生き方

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8歳の戦友の優しさと勇気

僕には勇気ある小さな戦友がいたこれまで誰にも話さなかったけれど・・僕が再出血予防のための脳手術のため入院していたときだった同じ病棟にいたある8歳の男の子僕は彼を「戦友」であり、勇気あるライバルだと思っている同じ病気だったかどうかは定かではないけれど、彼も手術を控え入院待機していたその8歳の戦友は、普段甘ったれた「ママ!」が口癖の男の子でしたいつもママの背中でしかものが言えないような子供だったのに長くつらい入院期聞がその子を成長させていたのか、その子の手術が決まった日、、手術台に向かう廊下から先は家族の同伴は認められていないことを知っていたかどうかは定かでないけれど、、その男の子はママに向かって、「この先はボク一人で行く。ママ、心配しなくてもいいからね」と言って微笑んだと聞きました。この話を聞いたとき、同士である僕は思わず涙しました。一言でも褒めてあげたい。同士たちは皆、そう考えていたはずです。残念ながらこの小さな「戦友」は、術後に意識を取り戻すことなく亡くなりました。でも、彼の勇気ある優しさは今でも私の心の中で生きています
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記憶と想像力と思考は自由だ

僕は身体は不自由だけれども記憶と想像力と思考力は自由だ!少なくとも夢の中では僕は健常者であり、サッカーもできるし、好きな水泳もできる人は皆、過去を振り向くなというけれど、僕にとって過去の記憶はかけがえない宝ものであるその過去があるからこそ今の自分があるのだ!自分が自分である所以だこのかけがえない宝である記憶は誰にも消す事はできないこのかけがえない記憶をたどる事や想像力と思考が自由である限り、身体は不自由でも、僕は精神的には自由なのだ!iPhoneからの投稿
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人の世の中、、って

世の中には、賢い人間と賢くない人間がいる。器用な人間も不器用な人間もいる。でも賢い人間と器用な人間だけでも世の中はうまくいかないと思う。ビジネスにおける競争だって、損をする人がいるからこそ、得をする人がいるもんだ。上に立つ人間も、下にくる人間がいるからこそ上に立っていられるそんな人の世をうまくまとめるには、自分の意地を押し通したいときにも、たまには、妥協だって必要だと思う。世の中なんてそんな相対的なものじゃあないだろうかでも、得する人、賢い人、上に立つ人は、そういう自分とは相対的な人間がいる事によって自分が成り立っている事を忘れちゃいけないと思う。いつ、自分がその立場になるかなんて誰にも分からないんだし、病気だって同じだと思う。自分がいつ病の床に伏してしまうかなんて誰にもわからない、でも、自分がそうなったとき初めて「本当のこと」が見えてくるものだと思う。だからって、卑屈になっちゃいけない。八方塞がりでどうしようもないと思える状況になっても希望だけは捨てちゃいけないと思う。どんな状況でも希望だけは持つ事ができる・・・それが人間じゃないかな、、こんな一見不公平に見えるこんな世の中でも希望さ...
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無限の道・・

僕は半身不随の障害者になったと同時に自分の会社の破産と自己破産をした・・そのとき僕はどう考えても僕の人生は終りだと思った。なぜなら、生きる道が全く見えなかったからだもうサラリーマンではなかったから・・・障害者としてできる範囲での「職場復帰」という道はなかったこともある経営者だったから、当然、労災も出ないどうしても自分で稼ぐしかなかった・・でも当時の僕はどう考えても、この半身麻痺の身体で稼げるとは到底思えなかった身体さえ動けば、工事現場の日雇い労働でもトトラック運転手で何でもやってやるのに・・でもそれもできない・・もう道が見えなかった・・どこにも生きる道が見えなかった。。でも今、こうしてなんとか生きている。不思議なものだ・・今から思うと「(生きる)道がない」と思っていたのは自分一人の経験と知識という狭い価値観と経験値の中でしか考えることができなかったからだと思う。脳には約1000億の脳細胞があるというその脳細胞のシナプスと各細が相互に影響しあっていろんな機能(思考も含めて)を作っているというその組み合わせの数は論理的には全宇宙の素粒子の数よりも多くなると聞いたことがあるつまり、「無限に近...
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自己犠牲と絆と自分

かつて、三島由紀夫は、男の美学は「自己犠牲」であると言ったという・・自己犠牲、、素晴らしい響きの言葉であると思うこの言葉に僕自身が引っかかるものがある人は自己犠牲の精神を見せ付けられると、その人に着いて行こうと感じるものだと思う。その人との間に「絆」も生まれると思う自己犠牲はなにも、男だけの美学ではないと思う。女性だって、子供に対しては自己犠牲の精神を発揮する事があるではないか。そんな意味では自己犠牲とは人間としての生き方の美学ではないだろうか。特に、男たるものいつかは一家の主となる。家族に対して自己犠牲の精神を覚悟をしなければならないときではないだろうか。自己犠牲の姿勢の見える父親であれば、自己犠牲の姿勢の見える夫であれば、妻も子供も着いて行こうという気持ちになるであろう。企業経営者にしても同じだと思う。僕はこれまで自己犠牲の姿勢のある社長と全く逆の自己防衛がありありと見える社長の下で仕事をした経験がある。自己犠牲の姿勢のあった社長は、経営が苦しく、社員に給与が払うのが難しいとき、自らは給与を取らず、しかも、闇金にお金を借りてまで給与を払ってくれた。当時、その社長の髪の毛が、みるみる...
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男の生き方、、そして人間の生き方

---------------------------------------------------決して刃向かったり、対抗したりしてはいけない。それはかれらの思う壺にはまることだ、火を放たれたら手で揉み消そう、石を投げられたらからだで受けよう、斬られたら傷の手当てをするだけ、どんな場合にもかれらの挑戦に応じてはならない、ある限りの力で耐え忍び、耐えぬくのだ、、--------------------------------------------今の時代にはそぐわないかも知れないけれど、、良い言葉だと思う山本周五郎の小説の一節だ。そして今の僕の心に染みるこの言葉の相手は自分の障害であり、僕を見る周囲の人々、そして僕を見る自分自身だと感じるiPhoneからの投稿
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できなくなった事にあえて目を向けよう

片麻痺の障害者になってからというものいろんな人からえ心前向きになるためには「できなくなった事に目を向けずにできる事に目を向けた方が良い」というような助言をされてきたけれど、僕は今年、できなくなった事にあえて目を向けようと思うなぜなら、できなくなった事に目を向けずにいるといつまでもできないままだから・・あえてできなくなった事に目を向けることでこの身体でできるようにするためにはどうすれば良いかを考えたいと思うそれがあらたな知恵に繋がるのではないかできないからといって諦めてしまうと本当に一生できないままになるできるようにするためにはどうすれば良いかを考える事が知恵ではないか人間であるのだから、できない事にも知恵と工夫で乗り越えたい。皆が無理だと言っても自分だけは諦めず、できるように知恵を絞りたい自分があきらめたら、本当にそこで終わりだから・・さて、何から挑戦するかな・・
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自分で「可能性」を掴むという希望

先月末、障害者のスキューバダイビングを支援するNPO法人を大阪で見つけた僕はさっそく僕ののような脳卒中後の片麻痺でもスキューバダイビングが可能か僕はエントリー(入水)とエキジット(出水)が最も不安だと伝えた。特にエキジット(出水)でタンクを背負ってこの身体で船に着いた梯子で上がるのは到底不可能だと思うと連絡をとってみた。そうしたら「(入水)とエキジット(出水)は何とでもなります。それより脳出血の原因特に脳血管障害の状態を診断書等から知りたい」という回答が来たので、すごく嬉しかった!(入水)とエキジット(出水)が何とでもなるというなら、ダイビングが実現できそうだと想ったからだ僕はもやもや病に起因する脳出血だが、もやもや血管は小児の頃から小さい頃は虚血発作を起こした事はあるが、思春期頃から虚血発作もなsくなり45歳に出血するまでは何の問題もなかった事。出血はストレスによる高血圧が直接の原因だということを伝えた。たぶんOKという返事が来ると期待した。でも・・もやもや病は細い血管があるから、タンクを背負ってのダイビングの場合、浮上時に血管に塞栓ができる可能性があるから危険だから残念ながら「NO...
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日々是新たに・・とは辛いものだ

日々是新たに・・とは言うことば、一日、一日を新たな気持ちで生きようという意味だ中国の論語には以下のようにある司馬温公はこれについて次のように述べている。「君子の学は、必ず日に新たなり。日に新たなる者は、日に進むなり。日に新たならざる者は、必ず日に退く。未だ進まずして退かざる者はあらざるなり」と、、つまり、人生に苦難や失敗はつきものである。挫折、絶望の原因となるものが次々に襲ってくる。しかしピンチに見舞われて、打ちひしがれては自滅するのみ。今日、苦悩や悲しみに傷ついても、そこでへこたれてはいけない。耐えて明日を迎えよう。そこに新しい一日が始まる。というような意味だ。しかし、この脳出血後の片麻痺という障害は実に辛いもう4年も経つけれど、誰かに言われたように「障害に慣れる」なんてことはあり得ない。左手脚に重い鉄球を付けられた奴隷のようなものだ。4年間もそんな鉄球を付けられた状態で生きているのだ慣れるもなんてもんではない慣れるどころか日に日に辛くなるばかりだいつこの鉄球は外れるのだろうか・・と、、それこそ、気持ちを「日々是新に」しなければ、生きていけないでも毎朝、気持ちを「日々是新たに」しよう...
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人生は闘いの連続、そして勝つか負けるかどちらかだ

人の人生とは闘いの連続だと思う、そして勝つか負けるかどちらかだ負けたらそこで人生は終わり・・闘うといっても他の人間と闘うというだけではない人生に苦難や失敗はつきものである挫折、絶望の原因となるものが次々に襲ってくるそれは病気であったり、天災・厄災であったりするかもしれないもちろん生きている中で闘わなければならない人間の相手も出てくる可能性もあるそれは相手が必ずしも「僕に対する悪意」のようなものを持っていなくても、あからさまに攻撃してこなくてもその人の行動や言動が僕にとって不都合な状態になるのであれば「闘う或いは対処する」必要が出てくる場合もあると思うそして自分自身の我欲が最大の敵となる場合も多々ある。自分の弱さも闘わなければならない相手でもあると思うしかしそんなとき、自分に負けて打ちひしがれていてはどん底に突き落とされるそこで心がへこたれてはいけない 耐えるのだ・・そうすればきっと道は見えてくると思う心がへこたれては道は作れない心がへこたれては本当は道が作れるのに創造すらできなくなる僕も左半身の障害とは毎日が闘いである僕は左効きであったから左半身はある意味闘うための「武器」でもあり、強...