結婚というコミットメント


最近、夫婦が少し相性が合わないと

思うとすぐに離婚をする傾向にあるyように思う

でもよく考えてみると、

どんな夫婦でも、結婚式の時には

以下のようないわゆる「誓いの言葉」を

誓ったのではないだろうか。

○○さん、あなたはこの女性を

健康な時も病の時も富める時も

貧しい時も良い時も悪い時も

愛し合い敬いなぐさめ助けて

変わることなく愛することを誓いますか

「はい」

○○さん、あなたはこの男性を

健康な時も病の時も富める時も貧しい時も

良い時も悪い時も愛し合い敬い

なぐさめ助けて変わることなく

愛することを誓いますか

「はい」

あなた方は自分自身をお互いに捧げますか

「はい

というように・・・

キリスト教形式なのであれば、

それは建前として

神様に対して誓ったはずだと思う。

そしてその誓いの言葉とは

絶対的な約束、

つまりコミットメントした

ということではないのだろうか

そして離婚をするときには、

ほとんどの場合、

相手の責任と言うようにその責任をパートナーに

押しつけているのではないだろうか?

僕自身は結婚の際のコミットメント(誓いの言葉)

というものは

神様などという存在もしないものに対してではなく

自分自身に対するコミットメント(誓い)だ

考えている。

だから、どんなにパートナーが変質してしまおうとも

この誓いの言葉を破ることになる

パートナーが変質したという理由は

理由にならないのではないだろうか

自分自身だって変わる(変質する)ものだ。

変わらない(変質しない)人間なんていないだろう

お互いに変わる(変質する)ことを前提に

(相手に対しても、自分に対しても)

コミットメントするのではないだろうか

離婚というものは

自分に対する約束を破ることに

なるのだと僕は思っている。

パートナーの責任などではなく

自分自身が、自分自身への約束を

守れなかっただけの話だと思う。

だからこそ僕は、

何としても自分に対する約束を

破るようなことはしたくない。

自分への約束(誓い)さえも

守れないような人生なんて

どんな目標を持っても、

どんな志を持っても

その自分の目標や志を

破ってしまうようなものだから

生きていても仕方がないような

人生ではないだろうか。

そんなふうに考えると

離婚というものが最近の風潮であり

離婚しないということが古い考えだと

言うような人もいるけれど

そんなことはないと思う。

自分自身にが自分自身に対する約束を守るという事は

古いも新しいもなく、

絶対的に普遍的で大切なものではないだろうか。

だからこそ僕は、

途中でこんな障害者になってしまったけれど

自分への約束は、自然死するまでは

絶対に破らない。

(力が足りないかもしれないけど)

(守りきれないかもしれないけど)

全力でパートナーを守ろうと思っている。

どんなことがあっても・・・ね。

たとえパートナーは変質したとしても

その約束(誓い)見破ることは

パートナーの問題ではなく

自分自身に対する約束(誓い)を

破ってしまうことになるのだから

自分の問題ではないのだろうか?

自慢げにバツイチなどと言っている人もいるが

そんな人を(人間的にも、社会的にも)

信用できるのだろうか?

投稿者プロフィール

代表
京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。
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