人間について

批判とクレームは成長の種

このブログを書き始めて約1年半近くになります。本当に自分の思うこを勝手気ままに、その時々の気持ちを思うがままに書きつづってきました。この記事を読んだ読者から猛烈な批判とお叱りの言葉の嵐のようになったときもありました。僕も人間だから、そんなときは恐ろしく落ち込んでしまいます。あまり責められると自暴自棄になってしまいます。でもそれを乗り越えると新しく成長した自分がそこにいます。いつの間にか相手の批判を真摯に受け止ることができているようになり、考え方を変えなければいけないと反省します。人間にとって批判は成長の種だと思います。もちろんそれは、批判を真摯に受け止めることができるようになることが、前提ですが、、、、、企業でも同じだと思います。会社をやっていたころに理不尽と思えるようなクレームはいくらでもありました。当初は、「機そんなのお客様やクライアントのわがままだ!」「理不尽な要求をするクライアント」などと思い憤慨していても、後から、中にはこちらの対応の仕方も確かに悪かったかもと思えるようになってきたりします。そうすると次からは同じようなクレームを出さないように、知恵を出し工夫します。そして理不...
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オシム元監督のリハビリとの闘い

偶然、youTubeでオシム元監督がご自分のリハビリとの闘いについて語っている動画を見つけた。思わず見入ってしまった。僕と同じく左半身麻痺だからだ。その中で、「治療そのものよりもいリハビリの方が何倍も痛く苦しいもの」「自分を信じなければ回復するのは難しい。」「若い頃やった以上に大変なことをやり続けなければならない」「病気になってからのトレーニングの方が、現役時代の練習よりも多かったはずだ。」この四つの言葉が僕の胸に突き刺さったその通りだと思った。スポーツのどんなにつらいトレーニングにも忍耐が必要とすると思う。でもオシム元監督は、この年齢で厳しいリハビリを頑張り、この動画程までに歩行能力を回復した。勇気と希望をいただいた。そして日本社会に対する問題提起までしている。「日本人の多くは、自分の意見を公表することを恐れているようだ」なるほど確かにそう思う。「勝つことよりも生きること」この言葉は、サラエボの内戦の切り抜けてきた人だからこそ出てきた言葉だろう。生きていけることが当たり前の今の日本にいるとわからないことなのだろうありがとう。オシム僕も頑張ろう。
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限りない可能性への挑戦を続けよう

今朝、ふと健常者だったころの僕のひとつの夢を思い出した。それは死ぬまでに一度で良いから「キリマンジャロ山の頂からアフリカのサバンナを眺めること」だった。アフリカのサバンナ・・それは「人類発祥の大地」としてなぜか僕のあこがれだった。何か新たな価値観を見つけることができるかもしれない。価値観の大転換が起こるかもしれない。そんな期待もありチャンスがあれば一度は行ってみたいと思っていた。幼いころテレビで見たジャングル大帝のアニメの影響かもしれないが、僕の心の中では無限に広がる草原・・・・果てしない地平線・・そんなイメージがあり僕にとって憧れの地だった脳出血で障害者になってからというものそんな夢はころっと忘れていた。心のどこかで「こんな体になって到底アフリカになんてできるはずがない」と自分で自分を制限してしまっていたのではないだろうかそして僕の「本当の夢」を忘れていたのではないだろうかいつのまにか「健常者にもどること」が大きな目標になってしまっていたような気がする。健常者に回復することも果てしない目標だけどそな健常者に戻ることを人生の目標にしてはいけないのではないだろうかと感じた。せっかく人間に...
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苦境が人間を強くする

苦境こそが人間を強くするものだと思う。これは真実だと感じる。苦しくて苦しくて苦しくて仕方がないときほど、「何としても、何とかしなければならない。このまま弱音を吐いていても人生の破局を招くだけだ」そういう思いに至ったときにこそ、不思議と病のことさえ忘れかけ、必死になって考え、体が動かないにもかかわらず、行動している自分がいる。不思議なものだ。苦境こそが、逆境こそが人間を強くする。この世の中強くなければ生きていけない。そんな甘いものではない。障害者だからといって誰も助けてくれるわけではない。いくら福祉だと言っても、全障害者をカバーできるわけではない。所詮は弱肉強食自立できないものは破滅するしかない。世界を見てもそうだと思う。そのあたりは、アメリカ人は強いと感じる。アメリカ人は、「自立」を大切にしている「自立」できないものは「負け」という自由=市場原理の考えが国民全体に徹底している。オバマ大統領が国民皆保険制度を作ることに四苦八苦しているのは、こういったアメリカ人の国民性があるからだ。もちろん民間保険会社の圧力などもあるだろう。でも知り合いのアメリカ人などはスウェーデンのような「福祉」には反...
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哀怒痛痺をどう乗り越えるか

哀怒痛痺をどう乗り越えるか哀怒痛痺・・喜怒哀楽でもない。自分で作った造語なんて読めばいいんだろう・・「あいどつうひ?」(笑)どちらにしてもこの2年間この哀怒痛痺との闘いだった。哀怒痛痺の哀怒については心の持ち方でなんとかなる自信ついてきた。なんとでもなる自信がある。が、なんともならないのが「痛痺」だ物理的な痛みと痺れ(モルヒネも効かないって言われた時にゃショックだった)これも心頭滅却すれば火も亦た涼しということわざにもあるように、心の持ち方で癒されるかもしれないと思い、エルバート・ハバードの「自分の心の弱さ以外には越えられない障害など存在しない」という言葉を糧に煩悩をなくせば、心を強くすれば物理的な痛みでさえも心地良く感じる(耐えられる)のではないかと自分なりに「滅却」できるか挑戦してきたが、こればっかりはそう簡単にはいかない。人間の本当に「心頭滅却すれば火も亦た涼し」となることができるのだろうかインドの苦行僧に聞いてみたい僕にとっては永遠の挑戦だな。これを永遠の目標にするのもまた良し・・かな
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自分のエゴイズム(自我)

僕は脳出血で半身不随になってしまったときに最もつらかったことが二つあります。一つは半年間の入院中も僕に変わって必死で頑張ってくれた社員を会社廃業という理由で解雇しなければならなかったことです申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でもある取引先だった会社の社長そんな気持ちを告げた時、「解雇になった社員たちは決して恨んでなんかいませんよ。 貴方の会社の社員たちは、仕事にとてもやりがいを持っていましたよ。 私は彼らにいつもやりがいのある仕事をさせてもらって良いねと言っていました その証拠に貴方が倒れた後も貴方に変わって売り上げを上げようと奔走していたじゃないですか 彼らに後悔はないと思いますよ。そんなこと思っているのは貴方だけですよ  彼らにいつまでも残っていてほしいという思いは貴方の気持ちですよ。彼は満足していますよ。」そんな風に言われた。その瞬間ふっと肩の荷がおりたような気がしたもう一つ、僕がつらかったのは当時5歳だった。息子を抱っこできなくなってしまった事といっしょにキャッチボールなどができなくなってしまったことだった。父親らしいことができなくなってしまったことに対して、とても辛く息子に対...
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無になることのメリット

昨日書いた「心を無にしたい」という記事について、無になるより喜怒哀楽がある方が生きている証拠ではないかというようなコメントを頂きましたが、僕が無になりたいという意味は喜怒哀楽を感じなくしてしまうことではないのです。それで「死」と同じだと思います。そうではなく「私心」を無くしたいという思いなのです。私心をなくし心を無にすると世の中の事象を素直に客観的に捉えることができると思うのです。素直になれるということは、ある意味で喜びを喜びとして素直に喜べるから喜怒哀楽はもっと激しくなるかもしれません。「心を無する」ということは「こだわりをなくす」と言った方が良いのかもしれません。自分の中に、変な「こだわり」があると楽しいことでも、素直に楽しめなかったり、素直に喜べなかったりするのではないかと思うんです。逆に辛いこと逆境なども素直に受け止めることが、正しく捉えることができることによって、より問題の本質を見極めることができ、結果として解決策が見えてくるのではないかと思います。私心やこだわりがあるとどうしても偏ったものの見方をしてしまい、「心の目」を曇らせてしまい、物事の本質を見極められないのではないか...
独り言

昨日と今日は厄日かな

昨日から今日にかけてやる事、なす事全て裏目に出る体調も悪い~(ーー;)テンション下がりっ放しだi
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自我なんて

自我自我なんて無くなればいい。自我が存在するから苦しむ先日、東京都知事選に出馬する「ワタミ」の元社長、渡辺さんが「人生は自分が主人公でなければならない」などと言っていた。たしかにそうかも知れない。でも映画の主人公なら必ず助かる。でも僕は自分が主人公だなんて意識すると恐ろしく辛い。ここ数日どうもいかん。自我を捨て切れていない。だからむやみに苦しむ。わけもなく他人の恨みたくなる。。八つ当たりしたくなるそして麻痺の辛さに耐え切れなくなる。なんで今頃になって、なんでこんなに辛く思うんだ・・もうを乗り越えたはずじゃないのか・・無になることができていない、、自我はこだわりを生み、世の中に対する偏見を生むだから苦しむ。気候のせいだろうか気候のせいになんかしたくない。自分は主人公なんかではなく無でありたい心を無にしたい。なんだかつながりが欲しい。でも、誰かの世話になりながら生きるなんて死んでもイヤだ。まだまだ煩悩だらけだな・・自我だらけまだまだ弱いなあ。
独り言

誤解を怖れず・・

このブログを書き始めて約1年半、振り返って記事を見てみるとよくもまぁこれだけの記事を書いたものだ・・我ながら感心する。そして記事に対して色々な批判もたくさん受けた当初からこのブログは自分のための日記のつもりだった。自分の気持ちを素直に日記を書くことによって自分自身の気持ちを確かめたい。そんな気持ちもあった。同時に多くの考えてることに対してどんな反応があるのかということにも興味があった。自分の考えていることが正しいのか、間違っているのか、常識的なのか。非常識なのか。そんな思いもあって最初から実名で公開にこだわった。自分を隠したくなかった。色々な批判を真摯に受け止めたい。2CHやyahooの掲示板のような匿名でリスクがないので、いくらでも言い返せるだから匿名だと批判を素直に受け止めることができない気がした自分の意見を率直に記事にしてきたつもりだ。これまで最も批判を受けたのは尖閣諸島の映像を流出させた海上保安官に対する記事だった。かなり辛辣な批判を受けた。このときはさすがにかなり凹んでしまった。同時に僕自身もかなり頭に血がのぼった。でも時間が経つにつれて、受けた批判を徐々に冷静に、かつ素直に...