独り言

これは執念なのかも知れない

人の役に立つ人間でありつづけたい。人から介助を受けやければ生きていけない、施しを受けなければ生きていけないそんな役煮立たずな人間にだけはなりたくない。それはもう執念に近かった。なぜなら2年半前のあのとき、僕はもう何の役にも立たない人間になってしまったと感じた、父親としても夫としても何の役にも立たない人間になってしまった・・と感じたあの辛さを二度と味わいたくない。自分が役に立たない人間と感じることがこれほど辛いことだとは思わなかった。これは味ったことのない人には分かるまい。だから、少しでも役に立つ人間でありたい。もう二度とあの心の辛さを味わいたくない。生きていて、生きているにも関わらず、そして人とのつながりを持つことができているにも関わらず、人の役に立たない人間であるということ、そう感じてしまうということそのことの辛さは計り知れない、少なくともそれは僕にとって生き地獄だ。生きている意味がないに等しいほど辛く苦しく、悲しいことだ。だから、そんな辛さから脱出するため、ただそれだけのために人の役に立つ人間でありたい。そんな僕の気持ちを満足させるためだけに立ち上げた環境技術データベースサイトであ...
人間について

(自分の苦しい運命に対して)弱い者ほど許すことが出来ない。

弱い者ほど相手を許すことが出来ない。許すということは強さの証だ!ご存知の方も多いと思いますがこれはあの有名な(僕も尊敬する)インドのマハトマ・ガンジーの言葉だ。この言葉は相手に対する心構えだと思っていた。でも今、僕は自分自身に対しての言葉ではないかと感じている。そして「自然の摂理」に対する言葉ではないかと感じている。僕は今こう考えている弱い者の自分が病気になったことを許すことが出来ない。自分が災害などの苦境に陥ったことに対して有すことが出来ない。病気になったことを、苦境に陥ったことを自然の摂理と考え、受け入れ許すということは強さの証だ!今、そんなふうに考えるようにした。そう考えることによって自分の心は救われるからだ。
人間の生き方

人は殺されでもしない限り、どんなに苦しくても生きなければならない。

人は殺されない限り生きなければならない。人は殺されでもしない限り、どんなに苦しくとも生きなければならない宿命なのだ。どんなに苦しく痛い病気になろうとも、その苦しみがどんなに続こうとも今回の震災の多くのく被災者のように愛する人が死んでしまって路頭に迷うような苦境に陥り孤独で、孤独で、不安で不安でそれほどまでに孤独で苦しくても生きなければならない。それでも自ら死を選ぶことは基本的に許されないのだ。「生きることは尊いことだからぬのはいけない」とか「命は大切だから生きなければならない」などと分かったようなことを言う人もいるが、生きるということはそんな生易しいものではないのだ。どんなに苦しくても生きさせられるのだ。僕も脳出血を患い、半身不随という障害者になったことによって、多くのものを失い苦しんだ。自分なりに苦しんで苦しんで苦しみ抜いた。会社も破産して、自己破産もして、築き上げてきたものを何もかも失ったそして体の多くの機能を失ってしまった。そのため普通の仕事に就くことも出来ず、無職無収入という絶望的な状態に陥り、未来が全く見えない状態だった。その上延々と続く後遺症も猛烈な痛みと痺れに一分一秒延々...
人間について

言葉は何より最良の薬だ

痛みとは本当に苦しいものである脳卒中の後遺症の疼痛というものはこの上なく辛く苦痛を伴う。そして誰も分かってくれないという心の苦痛を伴う。病者は現存する苦痛から逃れようとして、訴え、審査に耐え、薬物を服用する。健常者だったころの様な快楽の追求などはは一切なく、不快感からの逃亡しかない。自分自身で調節することができ、忍んで耐えられるときはまだ良いこの苦痛の根源を断ち切って独り立ちできるように医師を頼りに一切を預けたからこそ、苦痛を伴う検査にも耐え、命じられるごとく薬を服用するものだ。ただ、ただ苦痛や不快感から逃れる去ることしか考えられないのだ。そんなとき、医師は自分の辛さをわかってもらっているはずだと考えるからこそ全てをゆだねることができる。逆に医師の言葉から共感を得られない(理解してもらっていない)と感じたときそれこそ地獄である。そんな時こそ医師や看護師や家族のいたわりやいつくしみの言葉がほしいものだ。薬剤などよりずっと効果があるのではないか。なぜなら言葉こそ心を癒してくれるものだから・・痛みはは脳が作り出すものだという言ことは脳を患った僕はイヤというほど実感している。少なくとも脳卒中の...
人間の生き方

すばらしき人生とは

すばらしき人生とは決して事業に成功することでもなく、100歳まで生きて天寿を全うすることでもない。悲しい人生とは途中で事故や病気に襲われることや事業に失敗することが悲しい人生とは限らないたとえ事業に成功し、莫大な財産を築いたとしても、周りから疎まれたり憎まれたりして、そして少しでも手を抜いた生き方だったとしたらそれこそが悲しい人生だよ。たとえ道半ばで死んだとしても、たとえ病気ばかりの苦しい人生だったとしてもたとえ事業に失敗したとしても、たとえ力や能力がなくて、失敗ばかりで何も遺せなかったとしても最期まで精いっぱい自分の力の限り生きることができたなら、そして死ぬ瞬間まで周りの人たちから愛されていたのなら、そして惜しまれて死ぬことができたのなら、それこそがすばらしき人生だよ。今回の震災で無くなった方々へ・・
人間の生き方

甘えか甘ったれか

甘えと言う言葉は日本語以外にはないそうです。なぜなら、これは日本人の特性によるものだからだそうです甘えとは相手が「分かってくれている」という前提で行動することだからです。だから相手が想定がいの反応や行動をすると、「すねる」「ひがむ」「恨む」という心理状態になるわけです。特に日本人は「暗黙の了解」や「暗黙のルール」などを信頼する傾向にあるためにこのような「甘え」が生じるそうです。いわゆる以心伝心を大切にするがために起こる現象なのだそうです。だから甘えは甘ったれとは意味が違います。甘えの行動は日本人独特の行動様式なのだそうです.その意味で「甘え」とは日本人にとっては当たり前の行動様式なので基本的には無自覚だそうです。しかも「甘え」とは悪い意味ではなく欧米人にはない日本人の良い特性の一つだとも言えるそうです。しかし「甘ったれ」とは、自ら良く思われたいとか好かれたいという自意識の元に行動することだそうです。そんなふうに考えると最近、僕は自分が「甘ったれ」ではないかと感じる。自分が障害者であること(日々のつらさや悔しさ)を「分かって欲しい」という自意識があるような気がするいや確実にあると感じる。...
人間の生き方

お前はこれまで本当に真剣だったか?本当の挫折こそ、生きる力の源泉であり成功の母である

挫折が一度もない人生を送る人間なんてこの世にいないだろう。挫折は絶対に乗り越えなければならない。挫折を乗り越えれば必ず心が強くなっている新たな知恵も備わっているものだ。人間が生きようとする力がある限り必死で挫折を乗り越えようと頭をフル回転させるからだ。僕も2年半前の脳出血からこれまでの間、それまでの45年の人生では使ったことのないようなレベルで頭はフル回転していたと思う。心も来る日も来る日も、何度も、何度も、これでもかと言うくらい叩きのめされ結果として強くなったと思う。今の自分は発症以前とは全く違う自分になっているような気がする。ここまで来れたのは、自分で言うのもなんだが自分の生命力を信じたことと希望を捨てなかった結果だと思う。心を強く持ち、必死で知恵を巡らせば、良いアイデアや必ずチャンスが見えて来るものだと思う。ダメだと思ったらその瞬間に意欲がなくなり、知恵もアイデアも湧かない僕は健常者の頃、これほどまでに必死になったことがあるだろうか。いやなかったと思う。確かに会社に見合わぬ大きな借金を抱えてはいたけれど、本当の意味で「真剣」ではなかったのではないだろうか。「真剣とは・・僕は思う。...
独り言

イメージ通りの動きが出来ないもどかしさ

ここ数日梅雨前線や低気圧の影響か恐ろしく体が辛い。朝起きても左半身の痺れがひどいまでに左足は完全に硬直状態だ!パソコンの部屋に入って仕事がしたいが、思うように体が動かず部屋まで行くのが辛い僕の家は2階建てでリビングが2階で仕事部屋が1階なので仕事部屋いくためには毎回階段の上り下りが必要なのだ。「いいリハビリになるね」などと言わ出たことがあるが、僕にとってはそんな生易しいものではないのだ。体は思うように動かない、しびれが辛い、でも頭だけは働いているフル回転している。それが辛い。頭で考えているイメージ通りに物事が出来ないからだ。もどかしいにつきるのだ!辛いなどという気持ちを通り越して腹が立ってくる。なんとかならないものか。これ・・
人間の生き方

生々しい現実か、崇高な理想か

今、役所広司主演の「13人の刺客」という映画を観終わった。武士道をテーマにした感動する映画かと思ってレンタルした。でも、残念ながら期待した内容ではなかった。なぜならこの映画は生々しい現実、つまり人間の中に潜む醜い欲望や残虐性を描いた映画だったからだ。最近、このような映画が増えたように思う。北野たけし監督の映画でもそんな生々しい現実を描いた映画が多いように思う。生々しい現実・・そんな現実を描いた映画や小説が本当に素晴らしいのだろうか?それは生々しい現実を受け入れることが大切だと言うのだろうか?理想を描いた映画や小説はダメなのだろうか?この映画を見て僕が思ったことは、生々しい現実を知ることに大きな意義はない。そして生々しい人間の中に潜む醜い欲望や残虐性などを知り、受け入れる必要もない。どんなに現実が醜いものであっても、崇高な理想を追い求める姿にこそ人間の生きるべき本筋があるのではないかそんな姿こそ、美しく感動するのではないだろうか生々しい現実は知る必要はあっても、受け入れる必要はないと思うのだ。それは僕にも当てはまるからだ。障害という苦しい現実を知る必要があっても、現実を受け入れる必要はな...
人間について

リアリストかロマンチストか

できることができる、できることは出来ないとはっきりと明確にしなさい社会に出てからそんなふうに教わってきたような気がする。ビジネス上ではそれは大切なことだろう。よく、出来もしないのに「大丈夫です!出来ます」と言ってしまう営業マンがときどきいる。言い切ってしまってできるのならそれでも良いが出来なかったらクレームの嵐・・)大風呂敷を広めてしまい出来もしないプログラムをできると言って受注を取ってきてしまう健常者の頃そんな営業マンに振り回されたものだ。。到底不可能な納期でも威勢よく「出来ます!」といって受注するから困ったもんだ制作現場はパニック状態、徹夜、徹夜の連続だ。。。ビジネスはそれではいけない。もちろん多少の無理も必要だろうけどでも出来ないことは絶対に出来ないと言わなければ社内外に大変な迷惑をかける・・と思っていた。。でも、、人間が生きる目標や志はそれでよいのだろうか。僕は障害者になってから何度も聞かされた。「発症から6カ月以上経過して回復しない麻痺は回復は不可能だ」と・・確かに僕も実感している脳出血を発症当初は僕の左半身は完全麻痺だった左手左足は存在さえわからないほど全く感覚がなく、触れ...