独り言

何も変わらない。

僕の心がどんなに苦しんでいようとも死にたくなるほどもがき苦しんでいようとも、行き交う人々は何も気付かない。世の中も何も変わらない。こんなちっぽけなひとりの人間の心の動きなんて、世の中には何の影響も与えない。だとしたら、もがき苦しむだけ損どうせ何の影響もないのなら前向きになった方が得!ひとりもがき苦しむだけ損何の根拠もなくても良いじゃないか。とにかく前を向こう!前さえ向いていりゃあ、運も見逃さないだろう。後ろを向いていたら、運が近づいて来ても気付かない。とにかく前を向こう!ひとり勝手な夢を見ている方がずっと得!iPhoneからの投稿
独り言

僕の勲章

今日、僕は脳出血を起こしたときのことを考えていた。僕が脳出血を起こした直接の原因は基礎疾患にもやもや病があったとはいえ、間違いなく過労とストレスによる高血圧だった。クライアントからのクレームメールを読んだ瞬間に頭に血が上り僕は倒れた。あの年の9月には例のリーマンショックが僕の会社を直撃した。リーマンショックの翌月の海外向けの伝統工芸品の売り上げは5分の1まで落ちた。僕はどうしていいか分からなかった。目の前が真っ暗になりそうだったことを覚えている。銀行からの大きな借り入れもあった。返済する見込みがなくなりつつあった。同時に親会社から厳しい開発の要求とクレーム。僕の血圧はどんどん上がっていった。僕は必死だった。従業員の給料を何としても払わなければならなかったから。。そして家族を守るため自分の給与も確保するために・・・寝る間も惜しんで働いた。何日徹夜が続いたろう。そしてその年の11月20日運命の日・・取引先(クライアント)からのクレイムメールを読んだ僕は頭に血が上り脳出血起こし倒れた。そして障害者の仲間入りをした瞬間だった。これが僕の脳出血の原因だ。僕は自分の会社を守るため、社員を守るため、...
独り言

小さいけど、とてつもなく遠い遠い夢

一昨日だったかホンダの三代目 アシモ君が発表された。2代目からの最大の進化は指が人間と変わらないくらい使えるようになった事だそうだ。 欲しい!と思った将来スターウォーズのダースベーダーのよう身体に付けることができるようになって麻痺したり切断され腕でも自由自在に動く手を取り戻す日が来るだろうか。 僕の夢、、小さい小さい夢だけど、とてつもなく遠い夢それは左手で御茶碗を持ってお茶漬けをかきこむように食べる事。 他の事は口を左手替わりにつかえばなんとかできるようになった。柔らかいかばんのファスナーなどは片方を口で咥えて右手でファスナーを引っばればなんとかなる。口を左手替わりに使う事に恥ずかしいという気持ちも、もう無い。人間、イザとなった工夫して何でもできるようになるものだ。これが人の生命力というものなのかな・・・こうなってみると、口とは実に便利なものだ。充分手の代わりなる。 しかしただ一つだけ左替わりにならない事がある。それが食事のときの味噌汁やお茶漬けの茶碗を持つ事だ。これだけはどうしてもできない。だからお茶漬けは情けないかなスプーンで食べるしかない。 一度で良いから茶碗を持ってお茶漬けを口...
人間の生き方

不安でたまらないとき

不安になるときの最大の原因は「最悪の事態を想定できない」状態だと思う。最悪の事態を想定できれば「覚悟」ができる「覚悟」ができれば不安にならない。これからどうなるかわからないから不安になるのであると思う。こういう心理状態が一番よくないと思う。あの芥川龍之介が自殺する前「漠然とした不安」という言葉を使っている「漠然とした不安」これがいけない。その点僕は最悪の自体は想定できているだからある意味「覚悟」ができている。最悪の事態とは「再出血」であり、つまり「死」だ。僕の場合、今後7年間に再出血する確率は70%以上なのだ。極めて高確率である統計上ではあるが出血性のモヤモヤ病による脳出血後の再出血率は45歳から55歳の間で61.1%なので、僕は今48歳だか55歳まであと7年だから70%以上にはなっているだろう。そういわれると覚悟するしかない。そこにはあるものは「不安」ではない「覚悟」を持つしかないのだ。「そのとき」は道半ばかも知れない。無念かもしれない。でも後悔だけは残したくない。葉隠武士道に有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があるけどこの真意がここにきて初めて理解できたような気がす...
人間の生き方

守るべきものがあるということ

また一つ日本のモノづくり企業と海外を結びつけることができそうだ。優れた水処理技術を持つ企業とインドの財閥系の大企業とのジョイントベンチャーを進めることができそうだ。思ってもいない展開だ。こんな障害者の僕でもこんなことまでできるんだ。。。一時は何の役にも立たない人間になってしまったと感じていたことが嘘のようである。「人の役に立つ」このことが僕の脳出血で倒れて障害者となってからのこの3年間の目標でもあり志でもあった。大それた事を考えていたわけではない。ただ「人の役に立つ人間」でありたい。それだけだった。「人の役に立つ」ということは守るべきものがあるということではないだろうか。「役に立つ」ということはつまり困っている人(もしくは企業)を守ることにつながるのではないだろうか。僕は最低でも家族だけは守りたい。そう思っていた。にも関わらず、「人の役に立ちたい」そんな思いだけでただ、この身体でやれるだけのことをやってきただけだ。それが全く想定していなかったような大きな実を式結び始めているような気がする。全くの「想定外」である。ここにきて「想定外」だらけである。あるスポーツリーグのファンドの支援をして...
人間について

希望は志でなければならない

このブログの記事の中で何度も僕は書いてきましたが、希望とは世の中の状態や身体の状態に関係なく、心の中で持つべきものであると信じている。人間は人生のなかでさまざまな苦境に出会う。病気、今回の東日本大震災のような天災、戦争、さまざまな希望など持つことができないように感じられるような世の中の状態や身体の状態が必ずといってよいほど襲って来る。そんなとき希望が世の中の状態や身体の状態に依存するとしたら、人間は希望など持つことはできないではないか。人間の心の中に持つからこそ、希望を持つことができるのではないだろうか。希望とは、断じて世の中の状態や身体の状態とは関係ない。だから「希望の持てない世の中」など存在しない!これは僕自身が身体障害者となり、会社を破産させ、無職無収入になったという経験から断言できる。もし希望が、僕の身体の状態や家計の状況に依存するならば、僕は今頃、絶望しこの世にいないかもしれない。そういう意味では希望とは志でなければならないと思う。希望という言葉を使うと何か「与えられるもの」のような勘違いをするような気がする。そうではない。自分の心の中に目標として持つべきものだと思う。だから...
人間について

病気は僕らを選んだ

僕が脳出血を起こしたのは、基礎疾患にもやもや病があったからだ。脳の血管がレントゲンで撮影すると煙のようにももやも写るくらいに細いのだ。だからもやもや病と命名された。(正式名称:ウィルス動脈輪閉そく症)だから少しの血圧変化で出血を起こしやすいのだ。100万人に3人という珍しい病気であり、治療法は確立されていない難病認定された病気だ。その病気が僕らを選んだ。なぜ「僕ら」と書いたkかというと、息子にまで遺伝したからだ。なぜ息子にまで・・モヤモヤ病である限り、将来僕のように脳出血を起こす確率は非常に高い。息子には僕のような目には合わせてたくない。何が何でも・・日々医学の進歩している。去年の秋、東北大学でモヤモヤ病の原因となる遺伝子が発見されたという。遺伝子が発見されたということは遺伝子治療が可能であることを意味する。しかし現在の日本では遺伝子治療に保険は適用されない。お金がいる。。それも数千万円。。それでも僕は息子を守る。そのために障害者であっても稼ぐ。健常者に負けないくらい稼ぐのだ!世の中の役に立つ人間になることによってこんな障害者でも稼ぐことができることを証明してみせる。そして少なくと孫に...
人間について

いつのまに・・

最近、ときどき思うことがある僕はいつのまに障害者になってしまったんだろう。とても不思議に感じることがある。僕は中学生から水泳部に入り水泳が得意でマリンスポーツが大好きでスキューバダイビングをやっていた。インストラクターのライセンスまで取得した。そこそこ体力には自信があったのに・・・男のくせに料理も得意だったはずなのに・・フライパンの扱いも結構上手だったのに・・いつのまに・・・何もできなくなってしまったんだろう。歩くことすら満足にできない障害者・・・いつのまに・・・あの頃の僕はどこに行ってしまったんだろう。ふとそんな思いにかられる瞬間がある。いつのまに・・いつのまに・・僕は障害者になってしまったんだろう。あの頃の僕は帰ってくるんだろうか。。なんだか夢を見ているような気分だ。。
人間について

僕が生きている理由

僕が生きている理由、、それは親や息子とつながりを持ち続けるため僕が生きている理由、、それは家族と一緒にケンカしたり喜んだり悲しんだりし続けるため僕が生きている理由、、それは世の中のいろんな人とつながりをもつためつながりを持つことができるのは障害者でもささやかながら相手の役に立つことができるから・・つながりを持つことは絆を感じること絆を感じることで生きている実感が湧いてくるから・・僕が障害者でもささやかながら人の役に立ちたいと思う理由は人とのつながりが欲しいため・・人とのつながりがある限り、どんなに身体が痛くて苦しくとも生きているだろう。でもそのつながりが無くなるとき、それは僕が最期のとき・・そう思う
人間の生き方

僕にとっての生きる意味とは

生きる意味とは何かという問いかけに明確に答えることができる人は少ないのではないだろうか.僕も脳出血になる以前の健常者の頃は答えることができなかったと思う。危機感のダライ・ラマでさえ、あるときインタビュアーに「人間が生きる意味はなんですか」と問いかけられたとき「それは私にもわからない。しかし全ての人間は幸福を追求する権利がある」という答えだったらしい。あの世界的最高位の修行僧でさえ明確な答えはできなかったのだ。にも関わらず・・僕は今、なぜか明確に断言できる。少なくとも僕自身にとっての生きる意味が何かについては・・答えることができる僕の生きる意味は何度かこのブログの記事にも書いているけれど、「人とのつながりのために生きるのだ」と言い切ることができる。人とのつながり・・絆といわれるものかもしれない。どんなにお金があっても、どんなに何不自由のない裕福な生活をしていても人とのつながりがない人生なんて生きている意味がないと思うから。。。逆にどんなに貧しくとも沢山の人とのつながりのある人生は幸福ではないかと思う。僕は障害者になったことになって何度も何度も心の挫折感を味わった。動けない体で誰にも会うこ...