人間について

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自分で自分をあきらめない

障害者になってしまあってからもう3年半・・最近の僕は心の奥のどこかで回復を諦めているような気がするこの不自由な身体を「受け入れて」生きようなんて・・「障害受容」できた証拠と喜んで良いだろうか「障害受容」なんて単なるあきらめではないのか!医療関係者が「障害受容できるようにしなさい」なんていうのは「諦めろ」と言っているようなものではないのか!それは医療関係者が諦めているからのようにも聞こえる!僕は思うどんな事でも諦めたら、そこで終わりだよ!ビジネスでも失敗したところで終わる(諦める)から失敗になる成功まで続ければ成功になるではないのか!?最後の最後まで自分で自分をあきらめないようにしたい たとえ他人が自分をあきらめられても・・自分だけは自分をあきらめないそれは障害の回復でも、ビジネスでも同じ・・・自分だけは自分をあきらめない!
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善かれと思って・・策と知恵

善かれと思ってしたことが、思わぬ反発や問題を引き起こすことがある思いが足りないのか、はからいがたりなかったのか思い悩むことがあるでも、思い返してみると、そこには「策」に溺れたという感がある「策」は所詮は「策」「策」は「自然体」ではないどこかに無理があったのだろう「歪み」があったのだろうその「歪み」が問題の原因となっていたように感じるそうではなく目の前の状況を素直に受け止め、自然に湧き出る「知恵」でなければならなかったのだろうこのブログ記事でも同じことを感じる良いことを書こう、面白いことを書こうなどと「策」をめぐらした時に限って思わぬ反発のこコメントがきたように思う。自然体で思ったままをありのまま書いたときにありがたい応援メッセージを頂いたりする。苦しいときほ「策」に弄してしまうものだと思うこれからも何事にも「策」に溺れぬようできる限り「自然体」を心がけようと思う
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案ずるより産むが易し・・!

今日、中国人女子留学生と新型太陽光発電と新型蓄電池の勉強会をした。昨日、案じていたような理解不足はほとんどなかった驚いたのは一昨日に事前勉強しておくようにできるだけ分かり易く作っって送っておいた資料を彼女は相当読み込んだらしく完全に理解していた!キーポイントの質問にも的確に回答できたのには驚いた。。頑張り屋さんである・・日本の大学生なんかよりもずっと頑張り屋さんだと思ったそりゃ異国の地にひとりできて勉強しようってんだから、それなりの覚悟があるんだろう僕のの中国人に対する見方が180度変わった!そしても僕も負けていられないと元気をもらった。案ずるより産むが易しの一日だったこの調子でいけば、シンガポールでのプレゼンも上手くいくかもしれない・・・(^∇^)
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ここにきて気持ちの落ち込みが激しい

どうにも気持ちの落ち込みが酷い・・今頃である・・もう3年半も経っいるのに・・障害者であることが・・これまで相当突っ張ってきた行動も暴走してきたように思うとにかく何かに集中し、夢中になって障害を忘れたかったような気がする暴走するあまり周囲に大なり小なり迷惑をかけてきたように思うそんな自分が急にイヤになってきた・・どうにも苦しい・・身体が不自由なことが・・きっかけはちょっとしたことである昨夜仕事で遅くなり、帰ってきたとき家内は「夕食は食べてきている」と思ったらしく食べるものが何もなかったご飯だけがあったのでで、お茶漬けでもたべる?って聞かれて何気なく「うん」と答えて出してもらった箸を持った・・・・・・・・食べれない。。お茶碗が持てない。。。からその瞬間・・オレ・・あらためて障害者だったんだ!って気付かされた・・こんなこと(お茶碗を持ってご飯を食べる)さえできないんだ・・って・・そんな些細なことから、急に悲しくなってきてしまった。そんなことはもうとっくに分かっていたことじゃないか!なのになぜ今頃悲しくなるんだ!・・オレ悔しい!なぜだかとても悔しかった情けなかった・・そういうことを忘れようとし...
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無欲と無気力

最近感じる事・・無気力になる人は決して欲求が弱いわけではないのではないかむしろ人よりいろんな欲求強いのではないかと思うのだなぜなら「欲求が多く、その欲求も強いが、その欲求をいくら頑張っても満たされない」そんな状況で無力感に襲われ「無気力」に陥ってしまうのではないかと思うこれは僕自身の今の状況に似ていると思うからだ・半身不随になって、実は僕は一倍欲求が強かった(のではないか)僕はありとあらゆることができなくなってしまった結果としてどの欲求も、いくら頑張っても満たされない他にもやってもやっても否定されるとか 認められないそんなことを感じたとき何もする気がなくなるからだ・・むしろ自ら「無私無欲」と唱えていた方が目の前のやるべきことを淡々と粛々とこなせるような気がするそんな意味で無欲と無気力は似ているようで全く別物だと思う人間は無私無欲に限りなく近づいた方が大きな力になるのではないかその意味で無私無欲に近付くことができた人間の方が、むしろなまじ欲求が強い人よりも精神的に安定し強いのではないかと思う
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痛みと痺れと不自由との闘い

毎日が痛みと痺れと不自由との闘いだこれに負けちゃいけないこれに負けると無気力になってしまうそれがぼくにとって一番恐ろしいことだ無気力・・つまり意欲が無くなったら終わりだすべては意欲から始まる意欲が知恵を生む苦境のなか無気力では知恵は生まれないこんな身体になった今、心の意欲こそすべてだだからこそ、痛みと痺れと不自由に負けちゃいけない負けたらそこで本当に終わりだよと今、自分に言い聞かせている
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欲は意欲の源泉になるか

昔、ある人から「人間は欲を持つ事は大切だ!欲は向上心の源泉になる」と教えられた事があるしかし、自分がこんな障害者になって人間の生き方というものを深く考えさせられた結果僕は逆だと思うようになったきた前回の記事にも書いたように欲の強い人ほどその欲求がどうやっても満たされないと分かったときとたんに必要以上に無気力状態になると思う無気力だけなら良いそれでも自分の欲求を満たそうと人のものにまで手を付けるようになったり欲求が満たされない事に我慢できず、借金まみれになる人や他人の不動産まで担保にいれたり保証人になってもらってまで借金をして欲求を満たすような人もいるそんなことを見ているとコントロールできない欲求は逆に人間を無気力にしたり、果ては犯罪にまで走らせてしまい結果として自分を苦しめる僕も健常者に戻りたいという欲求があるから苦しむ欲求さえなければ苦しむこともない欲求が強い人よりむしろ無私無欲の人間の方が何でも淡々と粛々と推し進めることができ結果として意欲が高まるのではないかと思う。僕自身無私無欲になることができれば、障害に苦しむこともなく、それによって派生したいろいろな諸問題に対しても淡々と粛々...
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何のために生きているのか

僕は何のために生きているだろう健常者の頃には「楽しみ」があった今頃のシーズンなら、今度に日曜日には息子とプールに行こうとか、家族でバーべキューに行こうとかそんな身近な楽しみがあったでも僕にはもう何もない泳げないからプールに行くなんて思い浮かぶことも一切なくなったバーべキュー?そんなこと誰が準備するの?家族には誰も準備できる人はいないそもそもバーべキューができたしても足が不自由で左手が全く動かない僕には焼けた肉を取りにいくことさえできない僕にはこういった「娯楽」はもう一生できないだから考えない僕の今の生きがいは再生可能エネルギーの提案書を右手だけでタイピングしてアピールしてあげることそれで自分が「障害者でも役に立つ人間かもしれない」と自分で思えるから・・僕に「娯楽」の楽しみは一切ない特に身体を動かす娯楽とは永遠に無縁・・あれほど身体を動かす娯楽(スポーツ)好きだったのに・それを全て諦めろというのか・・それは僕にはあまりにも惨い・・新しい価値観を見つけたら良いなんて簡単に言うヤツもいるけれどそんな簡単に40年以上培った価値観をそんな簡単に転換できるものかじゃあお前がやってみろと言いたくなる...
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病気の苦しみと闘っているのか病気の悩みと闘っているのか

僕は辛いとき僕は半身麻痺という後遺症の不自由や痛みや痺れと闘っているのかそれとも脳出血によって半身麻痺になったということに対する
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実態のない心が物理的な痛みさえも弾き返す

よく昔の人は学校で(会社でも)いわゆる「「根性主義」といわれる指導をしたものだ風邪やインフルエンザのような病気でさえも「気持ちの問題!」と一笑されたりしたものだこれをあるアメリカ人に言ったら「バカげてる!風邪やインフルエンザはウィルスが起こすものだ。人間の気持ちとは全然関係ない!」と言われたものだでも・・今日の僕の体調の変化を感じていると案外「気持ちの問題」も的を得ているような気がする実際僕は午前中、半身が痺れと痛みでもがき苦しんでいた心も荒んで壊れかけ寸前だったように思う。ところがシンガポールの投資家への提案書の翻訳の件の電話がかかってきた瞬間に・・そして息子の「ただいま!」の声を聞いた瞬間に・・痛みや痺れが苦になっていなくなっていた(なくなったわけではないが耐えられていた)改めて心の持ち方次第で人間ってどうにでもなるんだな・・と実感した。。(実態のない)心というものが物理的な痛みさえも弾き返すってスゴイことだと思うよし!根性!根性!根性主義で頑張るぞ!今の若者には嫌われるかな・・苦笑