人間の生き方

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全てを捨てる・・自分で自分を救うために

障害者になった事によるあらゆる苦悩をから逃れたい・・痛み、不自由、屈辱感、自己嫌悪、これらの苦悩や苦しみから逃れるためには・・やっぱり「我」を捨てなければならないとあらためて思う少なくとも中途障害を負うということはあらゆる場面で屈辱感に苛まれ、自尊心も大きく傷つけられるだから、そんな自尊心やプライドなどというものさえも捨ててしまわなければならないそんなものは捨てないと身体だけでなく、心までもが傷だらけになってしまい生きていけないから・・自分を苦しめる根源は「我」の存在であるとつくづく感じているだから、やっぱり「我」を限りなく捨て去る必要があると確信に近いものが僕にはある物理的な痛みさえも「我」を本当に無くすることができれば、痛みに苦しむことも無いのではないかと僕は思う心頭滅却)すれば火)も亦涼)しの状態に持っていかなければならない。じゃあ「我」を捨てるということはどういうことか・・自分の持っているモノを捨てることであるかもしれないそれは精神的なプライドやこだわり野自尊心も、そして物質的な所有物も含めて、全てを一旦捨て去らなければならないと思うなぜなら、自分の持つ所有物には自分の精神的な...
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これからが本当の人生の勝負

夢の中まで、自分が障害者になった、、心身ともにもう完全に障害者になったのであろうだからこそ、これからが障害者としての人生勝負だ!健常者になんか負けてたまるかべつに健常者が憎いわけじゃないけ、れど彼らは絶対に障害者を理解しないし、理解は不可能だ僕自身、健常者の頃を思うとそうだったから、それはそれでいい無理もない話だただ、そんな理解されない状況の中で生きていくためには、自分なりのやり方(障害者なりのやり方といったほうがよいだろう)生きていく!もう、周囲の健常者に惑わされたり、気をつかったり、あげく、自己嫌悪に陥ったりしない自分のやり方を貫くのだ!そして、障害者でも、身体の半分が使えなくても、健常者に負けない事を示したい。もういろんなモノを捨てたいや失った夢の中でさえも、失ってしまった身体機能、自尊心、自分が自分であるためのこだわりや思い入れ、これ以上失うモノはないだからもう何も怖いモノはないもしかしたら、少しだけ、釈迦の言う「空」という境地に近づけたかも知れないそうなればしめたものやるべき事を淡々と粛々と、他人にも、自分の「我」惑わされず、行動あるのみだiPhoneからの投稿
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自分を救うのは自分以外にいない

ブッダの教え(原始仏教)「ダンマパダ」を読んだそこには苦悩する自分を救えるの神でも仏でもない苦しい自分を救う事が出来るのは自分以外にいない自らの心の持ち方である自分を変えることが唯一の救われる道であるこれはあの仏教の創始者ブッダ(お釈迦様)の言葉だブッダの教え「ダンマパダ」はには・・ブッダはまた輪廻なども信じていなかった地面の下の地獄があるとか空の上に天界があるとかそういうことも一切ないそして、どこかに心優しい救済者(よく言う神や仏や先祖の霊)がいて、苦しみを救済してくれることなどないこの世は因果律によって粛々と動いているだけで不可思議な力を持った救済者など、どこにもいない唯一自らの苦悩を救えるのは自分の心の修練以外にないということ見抜いていたという。。天国や地獄や死後は仏になる(成仏)というような考え方はその後、ブッダの教えを引き継いだ僧侶らがどうしてもブッダのように悟りを開けないことから「大乗仏教」が栄えた頃に都合の良いように作った作りものだそうだたぶん誰か他者(神や仏や先祖の霊)が救済してくれると言った方が布教し易かったのだろう・・これって最近の新興宗教と同じじゃないか・・まさし...
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僕が「釈迦の仏教(タンマパダ)」に嵌った訳

僕は今、釈迦の仏教(タンマパダ)に嵌っているあえて釈迦の仏教という言い方をするのはその後出てくる現代仏教に繋がる大乗仏教(般若心経の大元)とは大きくあまりにも違うからだ僕が釈迦の仏教(タンマパダ)嵌った最大の理由はこの釈迦の仏教の教えが僕自身の心を救ってくれるからだそして、釈迦の仏教(タンマパダ)の最大の特徴は限りなく合理的な自己鍛錬のシステムであり釈迦(ブッダ)はあの世とか永遠の魂というような神秘性を一切排除し否定ていることそして自我の存在さえも否定していることだ。そして苦の根源は自我にの中にある執著(執着のようなもの)であり、すべてのモノ(この世の全ての実体)諸行無常であり、一瞬(刹那)に変化している(実体のないもの)であり、永遠の存在など一切ないということを心の修業によって悟れというものだからだ。この考え方は僕が脳出血で障害者になってからというものずっと感じてきた事と同じだ自我さえなければ(健康でいたいという)こだわりも(健常者でいたい)思い入れさえもなくなり、あらゆる執着から解き放たれ結果として、障害者であることに苦しまなくても済むと思っていた。そして死は「無」であるという僕の...
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過去を追ってはならない

過去を追ってはならない未来を待ってはならないただ現在のこの一瞬だけを精一杯力強く生きなければならない僕はいつもそう心掛けようとしているでも、僕の理性では障害者になってしまった今、そうやって生きるべきだと考えているけど、実際苦しい過去を追ってはならないというけれど「失った苦しみ」(喪失感)は時(時間)が解決してくれるから、「とき」が来るまで辛抱しろと自分で自分を言い聞かせてみる「とき」が解決してくれるという事は「忘れる」という事である例えば、ときが経てば、愛する故人の面影(過去)を追わないようになれるのは目の前に愛する故人が全く存在しな状況が続くからだと思うでも、今僕は・・祖の過去を忘れようとしても、今の僕の右半身は健常者のときの僕の左半身なんだ!今、この僕の目の前に、忘れようとしたい痲痺する以前の左半身がまるで鏡に映しだされたように右半身として現存しているんだ!それなのに、失った健常な左半身という過去を追ってはならない!?それは無茶だ!それはまるで亡くなった愛する故人を火葬も埋葬もせずに・・いつまでも目の前に寝かされていながら、「そんな状態で」故人の面影を忘れ、過去を追うなと言われてい...
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未来を待ってはならない

昨日も書いたけど、過去を追ってはならない未来を待ってはならないただ現在のこの一瞬だけを精一杯力強く生きなければならないと僕いつもそう思いながら生きているでも、実際難しい、辛い未来を待ってはならないというのは過去を追ってはならないという事に通じていると僕は考えている過去を追ったところで喪失したモノが戻ってくるわけでもないまた、夢のような未来を想像して待っていたところで、勝手にバラ色の未来が来るわけでもない逆に今は皆が未来に漠然とした不安を持っていると思うリーマンショックによる資本主義経済の脆さや限界が露呈してしまったし、その上、東日本大震災によって自然の脅威には人間の文明なんて何の役にも立たない事も露呈した・・そんな状況で皆が漠然とした不安を持っていると思う。僕だって、突然、半身麻痺という障害者になってしまい、将来は実に不安でいっぱいだ。でも、不安だからといって、何もせず未来を待っていたところで、不安がなくなるものでもないあの芥川龍之介が自殺の動機について、「僕は将来に対するただぼんやりとした不安」と書いているこういう心の不安の状態で、未来をただ待つという姿勢でいても、未来の不安が消える...
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なるがままに・・

僕はなぜこんな障害者になってしまったのだろう・・?なぜ脳出血のせいで自分の会社まで無くさなければならなかったのだ?なぜ破産までしなければならなかったのだろう?そしてなぜこんなに不自由で辛い、苦しい、情けない身体になってしまったのだろう一時は「僕が何か悪いことでもしたのか?」なぜ?なぜ?そんな疑問と自分の人生への怨みの気持ちでいっぱいになっていた時期がある正直、こんなに苦しく辛いならもう死にたいと何度思ったことだろうでも今、これは「なるべくして」なったんだと少しずつ思えるようになってきているそれは善行をしていなかったから、とか悪行をしていたからとかしうものではなく全ては因果則にしたがって起こったことなんだどういうことかというと僕が脳出血を起こした直接の原因は高血圧であるそして高血圧の引き金になったのはクライアントからのクレームや例のリーマンショックが原因で海外向け販売が激減したことそれは何も誰が悪いのでもなく、なるべくして起こったこと例えばリーマンショックでいえば世の中の大きな流れは誰にも変えることはできないさかのぼるとソ連崩壊後、資本主義経済の急速な進行それと同時に制御のないマネーゲー...
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前向きに生きるために・・

前向きに生きるために唱える言葉・・努力をした者が必ず成功するとは限らないが、成功した者はすべからく努力していた。「努力」より先に「成功」が出るのは辞書の中だけ。なぜ迷うか。地図がないからじゃない。無いのは目的地なんだ。結果の無い自信は過信。等身大の自分を認めること、つまりそれが自信。あなたが無駄にすごした今日一日は、昨日死んだ人が生きたいと切実に願った一日。生きているときに楽しかったら、死んだあとも楽しんじゃないかな。高望みするな。他人を見下すな。上を見ても下を見ても首を痛めるだけだ。人生の分岐点で、どっちが幸せになるかではなく、どっちで幸せになろうと考えろ。諦めることはいつでもできる。だけど諦めないことは今しかできない。凡人は「明日からやる」と言う。少し賢い者は「今からやる」と言う。だが、今からでも遅いのだ。賢人は昨日から始めている。何事も成さないには人生はあまりに長いが、何事かを成すにはあまりに短すぎる。生きるとは呼吸することではない。行動することだ。努力する者は希望を語り、怠け者は不満を語る。なぜベストを尽くさないのか。失敗は恥ずかしくないが、志が低いのは恥ずべき。何が正しくって...
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不遇は不幸ではない

人間、長い人生、生きている間には不遇な出来事もあるだろう病気、解雇、失業、離婚、etc.でこれらは確かに不遇ではあるでも不遇=不幸ではない!僕も脳卒中により、左半身の身体機能を喪失した。いつも痛みと痺れになやまされる羽目になった、脳卒中の後遺症のせいで、自分の会社も清算(破産)したこれらの出来事は、自分でも確かに「不遇」だと思うでも、不遇な状況を不幸にしてしまうかどうかはその後の自分次第だ!不遇なんて生きている限り誰しも必ず出会うものだ人間が人生の中で何らかの不遇に見舞われるのは、自然の摂理のひとつではないかとさえ感じる自然の摂理ならば、避けようがない要は見舞われた不遇な状況を不幸にするかしないかは人間の心の持ち方次第ではないかと思う僕は「何としてもこの状況を乗り切ってやる!」というような「激情」が必要なのではないかと思う。そんな「激情」こそが不遇な状況を「不幸」にせず、状況を好転させるのではないかと思うただ、そんな「激情」だけではなく、そこには、客観性も必要だと思うのだなぜなら、客観性のない激情、つまり主観的な激情で物事をすると、ひとりよがりになり、トラブルを引き起こすいずれにしても...
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「プロ」でありたい

僕は今反省しているプロとアマニュアの違い・・のことで・・プロとアマニュアの違い・・それはお金をもらうかもらわないかであると思っているお金をもらった瞬間にそれは「プロ」でなければならないプロなら・・もらったお金に相応の価値(労働・サービス・商品)を提供しなければならない起業しているか否か、経営者か否かは関係がないたとえサラリーマンでも、アルバイトでも・・であるそこには病人であるか否か、障害者であるか否かは関係ないそんなもの入り込む隙間はない僕は今ある会社で雇ってもらっている。そこで新しい事業を起こすための準備をしている1か月ほど前にその事業を起こすために1か月ほど前に必要な新しい設備が来たその設備をセットアップし、なければならない。でも片麻痺で常時痺れと痛みに苦しい僕にはかなりその設備のセットアップはかなりハードルが高いものだ。両手さえ使えればできるのに・・できないと悔しい思いをすることが多々あった・・そ悔しい思いをするのは仕方のなしいことだ何せこんな身体なのだから・・でも僕はそれだけではなく、その事を理由にたぶん心の中で多少遅れても仕方がないだsろうなどと言い訳をしながらそのセットアッ...