「障害や痛みを受け入れなければ前に進むことができないでししょうね」という
メッセーを頂いた方がいます。
でも僕は絶対にそうではないと思っています。
以前にも同じような記事を書きましたが、、、
医者はよく障害者に「障害受容」という言葉を使います。
つまり「障害を受け入れなさいでないと生きていけない」とでも言いたいのだろうか
「受容」という言葉・・僕はこの言葉はなんと冷酷で残酷な言葉だと思っている。
例えば愛する人の死の悲しみや障害を負った苦しみなどを受けれること?
不可能だ・・
経験した事のない人が無責任に言う冷酷且つ残酷な言葉にすぎないのではないのだろうか。
たとえな肉親や子供を亡くした方は時間の経過とともに
その悲しい事実を受け入れることが本当に大切なのだろうか。
それで心が癒されるのだろうか
時間と共悲しみが癒される?
それは不可能だと僕は思う
その人達の時間は亡くしたときの瞬間で止まっているのだ。
日常に涙が消えたのは、決して受け入れたわけではない。
心の隅にひたすらにコンクリート詰めにして隠しているだけ。
それでもときどき辛い想いが心の中に浮かび上がり、ひとり涙にくれるものなのだ。
僕の祖母が89歳で亡くなる直前に・・
もう60年以上前に満州で戦死した長男の名前を呼んだ
。
決して長男の死を「受け入れていた」わけでは無かったのだ。
死ぬまで「受け入れる」ことなどできなかったのだと思う
ひとり密かに涙にくれた日々もあったのだろう。
きっと祖母の時間長男の戦死通知が来た日から止まっていたのだろう。
死の間際まで・・
僕の時間も3年前の倒れた瞬間から止まっている。時間は45歳のままだ・・・
2008年11月20日14時のままです。
きっと死の間際まで永遠に止まっているのだろう。
この悲しみは永久に受け入れることなんて不可能だ。
心の奥に閉じ込めることはできても、
その扉が開かないように永遠に必死の思いで
、
その扉が開かぬよう押さえ続けるしかないと思っている
永遠に力を抜くことは許されない。
心の力を抜くとダメになり生きていけなくなってしまうと思うから・・
「悲しみの受容」とか「障害受容」などという言葉を言う医師や心のセラピストを自称する人たち
がいるけれど。彼らは何も分かっていないと思う。
精神科医や神経学者とかいう「識者」や「学者」たちのなかには
「受容ではなく、共存を」などという屁理屈を言っている人たちもいる。
それも不可能だと思う
ただひたすらに閉じ込め続けるしかないのではないか。
僕は思います。
車椅子に乗ってはいる障害者、盲導犬を連れている視覚障害者の方々、
股あるいは今回の震災で多くのものや愛する人を失った人々
彼らは死ぬまでそれを「受け入れる」ことはないのではないだろうか
テレビでも沖縄戦で少年兵として闘い、友まだ若い少年の友がが無残に殺された経験の
ある方が言っていた「一生許せない」と・・
つまり「受け入れて」はいないのだ。
そして少なくとも僕も自分の障害を死ぬまで「受け入れる」ことはないだろう
こんなこと永遠に受け入れてたまるか!
受け入れずに耐えずそかいの悲しみや心の苦しみと闘い続けて生きていく。
死の瞬間まで障害と闘い続ける!決して受け入れない
受け入れてたまるか。
障害や痛みを受け入れなければ前に進むことができない?
そんなことはないと思う。
それは逆で決して受け入れず闘い続けるからこそ生きていけるのだと思う。
少なくとも僕の心は永遠に死ぬまでファイティングポーズでいると思う。
障害と、そして痛みと闘い頑張り続ける。
投稿者プロフィール
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京都の某経営コンサルタントに従事
神戸の中堅IT企業にてWEBシステム構築や各種企業向けシステム構築のプロジェクト・マネージャーとして従事
神戸にてIT起業を起業し、代表取締役に就任
その後リーマンショックの影響で業績が急激に低下しに起因し、
血圧上昇と同時に基礎疾患のモヤモヤ病により脳出血発症し、
左半身不随の障害者となり会社は廃業、自己破産して、一時絶望
2020年まで障害者枠で非正規雇用の契約社員にて様々な企業に従事
2021年に再起をかけ、半身不随の身体でも出来るビジネスと踏んで
プロコーチを目指しコーチングノウハウを修行
2022年に、いつの日か個人事業主や企業経営者のコーチや個人のライフコーチとしてコーチングビジネスをするスタートする為、コーチング認定試験に合格し、認定コーチとなり、左半身不随障害者でも可能なあらゆる事業展開予定。
座右の銘は平凡ですが「ネバーギブアップ」です。